学ぶ事:コピー

学ぶとはコピーだ

自分のシステムをだいぶ理解してきた。まず、0から開発するよりもすでに有るものを使った方が何倍も早く、かつ信頼性が高い。だから、可能な限り他のコードをコピーする。こう言うとなんだか卑怯な様な気がするが、学習は先人が開発したものをコピーしているだけに過ぎない。自分の価値は高まったとしても、人類全体の価値の到達点は変わらない。

0から創るのはコストがかかり過ぎ、かつ時間が無いために、私たちは学習したものを後続に渡すために文字を作り出した。私たちが学ぶのは、ただ単に先人と同じ状態になるための作業に過ぎない。しかし、人生の1/4を使っても、先人の全てを学ぶには遠く、ようやく社会の一員となるだけだ。

なぜ、こんなにも効率が悪いのか。人類の中で最先端の価値を開発しているのは全体の何パーセントだろうか。なぜこんなにも、みんな何もかもをしらないのだろうか。さらに、全体像を知るものは無く、部分的に知っているだけだという。おかしくないだろうか?

インターネットによって、あらゆることを気軽に調べられるようになった。あらゆることは、常に知る必要がなくなった。知る事が出来る事を知っておけば、必要なそのときに知るからだ。問題は、知る事が出来るのに知ろうとしないことだ。あらゆることが細分化しすぎて、パーティションを作り、専門しか使えない人間を作り続けている。または、しったかぶりの人間だらけになるのか。

学ぶコストは高くない

最初に言ったようにコピーする事のコストは、創りだすことから比べるとほんの少しでいい。実際、楽だ。なんで、こんなにも学ぶ事にコストがかかっているのだろうか?自分の脳の回路は創るしかないから?人間関係は、真似することが出来ないから?全ては準備で、社会に出るための準備だから?

確かに成長期はあるし、必要ではある。でも、なんでこんなにただのコピーに手間取っているのだろう。学び方が間違っているのではないか?細分化した、学問そのものの作りがおかしいのではないか?なぜ、工学から人文学へのパスが通らないのか。基礎教養なんて言っているが、何を学んだのかわかっているのか?何かがおかしい。そして、おかしさに気付かないみんなもおかしい。なぜだ?ただのコピーだぜ。

心理的障壁

一つには、心理的障壁がある。学ぶ事は、自分が変化することだ。今の「アイデンティティ」は、情報創造時代に対応しきれなくなってきている。毎日、私たちが何者かを定義しなおすようなバラバラな世界では、落ち着かないのだろう。学習とは、世界を学ぶ事だ。学べば学ぶほど、世界の広さは広がる。私が変わる存在で有ることをあらかじめ規定しておくならば、それほど変わることに対する抵抗は小さくなるのではないだろうか。

もう一つは、脳のシステムをよく把握せずに行き当たりばったりで学習しているためだろう。なんで、だれも脳の仕組みを解明できないんだ?みんな使ってるだろうに。ブラックボックスのままでよく運用できると思う。

最近は学ぶ事は、楽しいとかそんな生ぬるい事は言えなくなった。食わなきゃ飢えるだ。みんな飢えていない。みんなの帯域は少ない。自分は、速読でも習得しないと、本当に生きていけないと思い始めているのに。情報に飢える。食事に飢えるより、何倍も苦しい。でも、理解する事は不可逆なので、より理解し続けるしかない。頭のいい人って、こんなのなのだろうか?それとも自分だけ?