因果と認識論

ピアジェの発生的認識論が、非常にコアクラスと似ている。やはり、たどり着くのはそちらの方向か。人工知能だなー。

因果に対する認識

世界は認識による総体で出来ている。認識は情報である。情報は編集可能だ。さて、私たちが学んだ中の最もと言っていいほど、初期に学ぶフィードバック回路が存在する。それは時系列に対する因果関係の認識である。さて、認識は情報である。情報は編集可能だ。ということで、因果関係の認識もまた編集可能である。

今まで漠然と考えていた、時間と物事の関係は果たして正しい、否、他の可能性はないのだろうか。時間が過去から現在を通り未来に進むという認識以外に選択肢はないのだろうか。原因があるから、結果が在るのだろうか。それとも原因と結果はただ自分で繋げて物語にしただけなのだろうか。

物語記憶という発明

人間は物語世界を生きている。エピソード記憶がうまく引けないと、記憶喪失として認識される。人間は時系列の出来事を物語として認識しているのだ。では、物語は結果が先にあるのか。それとも原因が先に在るのだろうか。それとも物語そのものが前提となっているのだろうか。

ここで自分の高校時代の話をして見よう。自分は、運動は得意ではないが、なぜか水泳部に入った。理由は平泳ぎがカエルに似ているからというなんとも、馬鹿げたものだが。実際、9割を平泳ぎで泳いでいた。まぁ、その話はどうでもいいか。色々な人間が居た。努力して結果を出せる人間。努力しても結果を出せない人間。努力しないで結果を出せる人間。好きな事(平泳ぎ)しかしない人間。その後、すでに6年ほど経過したが、皆同じ事を繰り返しているだけだ。

本番に弱い人間は、いつまでたっても本番に弱いため結果を出せない。本番に強い人間は、練習しようがしまいが、本番というだけで結果がでる。好きな事をしている人間は、今になっても好きな事をしている。

皆していることは、違ったり同じだったりする。でも、努力が実を結ぶ人は結ぶし、結ばない人は結ばない。運がいい人は、ありえないぐらいいし、悪い人はどうしようもない。これは何なのだろうか。

努力は実を結ぶという嘘

努力は、実を結ぶのだろうか。ちなみに自分の努力が実を結んだというケースはほぼ無い。自分は飽き易い人間だから、面白い事をやり続ける以外に結果になる事はない。努力して、何かが叶うというのは、願望だろう。望んだフィードバックが世界からもたらされるのは、希望でしかない。努力があったから、苦労したから、結果が生まれるというのは、そう望んでいるというだけではないだろうか。ずっと、人生を長いスパンで見ようが、短いスパンで見ようが繰り返している事に気がつかないだろうか。

原因が自分の存在とかと定義するなら、確かにそうなのだろう。人格とか無意識とかに定義すれば、それは変更可能なのかもしれない。運とか、家系とかに定義すれば、それもその通りなのだろう。人間の無意識は意識を騙している。流れるように連続しているように感じる意識は、おそらくそれ以外の時間を感じなくしているだけだ。実際瞬きの時間を意識しないのは、そのときだけ意識を遅くしているからだそうだ。

因果関係、物語記憶がただの認識でしかないとして、実際にどのような形をしているのだろうか。

未来を視る

私たち認識世界に住むものは、認識後において自由である。つまり、過去において自由である。現在は認識後に感じることしか実は出来ない。未来はただやってくる。それこそ、結論も原因も全く別々の存在で在るかのようにやってくる。原因というものは、因果の認識にしか過ぎない。認識はいつでも変えることが出来る。過去において、あらゆることがあらゆることの原因として理解されている。それは、後付にしか過ぎないにも関わらず。すでに型を持っているのではないだろうか。時系列を超越してすでに在るのではないか。

現在を見ても、未来は見えない。だから、私は未来をみて現在を作る。未来はすでに定まっており、物語として私は認識するが、実はそのようなものではないのではないだろうか。未来を引いた方が、よっぽど楽だ。ただ落ちるようにそこに行くだけでいいのだから。努力と根性で先に進むのは、実は無駄な抵抗ではないだろうか。行き先が逆に向いているのに必死で漕いでも着く先は変わらない。

過去を反省し、現在に努力し、未来を望むという認識と、
未来を視て、現在が流れ、過去を編集するという認識。

どちらが生きやすいかといえば、実は後者だったりする。過去から現在を通り未来に到るという思考法は、おそらく過去を引きずりすぎる。過去を見すぎてしまう。未来を視て、現在を流れ、過去を編集するというのは非常に楽で在るし、実際に未来を作ることが出来る。現在を見て未来を作るのではなく、未来をみて現在を作るのだと思う。取りあえず私はそのように考えている事に気がついた。

理想を視て、20年後、50年後を視てそれを現在に持ってくると何になるのか考えるのだ。けして、振って来る様に思いつくものではない。連続的に未来を視る事が出来ない人が、そのような事を言うのだろうが。未来を視て現在を作ればこれほど簡単な事は無いと思う。実際に未来で日常で使われていると実感できれば最良だろう。

未来を眺めるのはそれほど難しい事ではない。むしろ何でみんな後ろを向きながら走っているんだろうと思えてしまう。前を向けばそこに答えは落ちているのに。