小説家と神様と天才と宗教

「生きてきた私」を言祝ぐ技術
極端に幸福な、あるいは不幸な人生を送った人には「系の中で、あなたのニッチはユニークでした。 あなたが自分の人生をどう感じたのかは、私の知ったことではありませんが」
ほどほどの人生を送った人には「あなたの代わりはいくらでもいますから、世の中何も変わりません。 安心して下さい。そんな絶望は、周囲のみんなに共有されているものですから」

神様が科学的な存在ならば、亡くなる人に神様が語る言葉は、たぶんこんなかんじ。

科学技術は、人がより楽になるために発達してきた。

より長く生きるため。苦痛を感じないため。 いろんな技術が発達したけれど、楽になるはずの技術が実際にやってきたのは、 「解決」でなくて「先送り」。

帳尻合わせは最後の最後でやってきて、亡くなる時にはもう滅茶苦茶。

神様と小説家の視点は似ている。自分が神様だったら、やっぱり同じ視点。スタンダードは見飽きてしまって、「例外」を見る。繰り返しは面白いわけではなく、変化を見る。その中で自分の考えと違うものがあれば、その新しい情報を「面白い」とおもうだろう。

神様から見たら、この世界は暇つぶし?

まぁ、神様がいたとしたら。暇つぶしかもしれないし、仕事かもしれない、生殖活動かもしれないし、もしかしたら公共事業かもしれない。何かの解を得るための遺伝的プログラムかもしれないし、それは色々な想像、妄想ができる。

世界のコピーライトがわかりやすく書いてあればいいんだけれど。どうやら、この世界の外側に書いてあるのか、書いてないらしい。まだ見つけてないだけかもしれないけど。不確定性原理で系の外側がどうなっているか、観測できないことが証明されてしまった。なんとつまらない。

要するに、神様がいるとしても観測できないことが確実になってしまった。さて、宗教としては逆にこれは利用できるのだけれども。宗教は、観測外の答えに対して答えをくれる。もちろんそれは、正しいかどうかというのは別だけど。科学は、その点に関しては非常に無力だ。「わからない」というしかないのだから。いくら観測精度が上がっても、シミュレーション処理能力が上がったとしても、たどり着けない答えがあることを知ってしまっているから。

世界と人間のハードウェア

でも、今の宗教はお粗末で、科学で矛盾を突けるような論理展開をしていたりする。挙句は、理解だの解釈だので逃げるばかりで、なんともいただけない。

なんで、科学的アプローチによる宗教の構築をすればいいんじゃないという話で。どちらかというと宗教というよりは哲学だろうけど。その世界観を信じるという意味では宗教に近い。

まず、科学の限界を超えたところ以上のところ「しか」触らない。これじゃ完全に哲学だけど、科学は理解はすることができるけど、意味を与えることはしない。よって、踏み込む範囲は、世界の意味と人間の意味と「あなた」の意味だ。これさえ、与えられることができるならば、他の雑多な部分は必要ない。大体そんなことをするから、論破されるわけで、一切触れないならば、論破される心配も科学と抵触して矛盾を生むことも無い。

世界の意味

そんなわけで、考えてみよう。
「世界の意味」とは、無い。終わり。シンプルですばらしい。もう少し細かく見ると、
「世界の意味」とは、全てである。終わり。すばらしい。全てというのは、あらゆる意味を人間がつけるという意味で全てである。意味なんて人間がつけたものだよ。神様がつけた意味なんて、観測できない以上仕方ない。神様の認識空間と人間の認識空間は繋がっていないのだから。仕方ないでしょ。あきらめから始まる宗教。なんともネガティブ。だがそれがいい

「全て」というのは、たとえば愛とかだったら、キリスト教だったり、空だったら仏教だったり、要するに全ての宗教世界観意味を全て含んだ意味ということだ。全て含んでるんだったら、誰がどう見ても文句は言えないでしょう。メタ宗教ですね。要するに解釈は人間側の世界を理解するための手段であって、神様側の手段でも目的でも無いわけです。

うん、救いも何も無いね。実際、結構正しいだろうけど、そこには何も待っていなかったりするのですよね。つまらないけど。

人間の意味

よし次いこう。
だがしかし、同じ結論(意味なし=全ての意味)の繰り返しで終わりになりかねない。だから、人間のハードウェアを見ての考えうる意味空間を書いてみよう。ただ、これも解釈なんて同にでもできるから、意味なんて無いのだけれど。

そういえば、「全てに意味が無い」というのは、ネガティブな意味では無いのです。なんかそのように見えるようなので一応注釈。「全てに(宇宙にハードウェア的にコーディングされた)意味が無い」=「人間側が全ての意味を(ソフトウェア的に)構築した」=「全ての意味はある」となるので、要するに何もどうにもなっていなかったり。極端に絶望を突きつけて暗闇を見せ付けられて、何も無い事を思い知らされて、そんな結論に至る訳で。それに意味はあるのかわからないけど。

さて、人間という定義を変えることで、この人間の意味は変わってしまう。よって、単純に現在の常識の人間を考えて、それだけに意味を与えたところで、その定義が変わるごとに再定義が必要になる。そうすると聖典の再解釈とか、なんとも情けないことになるので、注意しておきたいところだ。

人間とはなんだろうか。生物とはなんだろうか。物質とはなんだろうか。意味を定義するのは、あくまで人間側で、哲学的に宗教的に定義するしかない。そうおもうと意味なんて無いというまたそいつが出てくるけど。この意味が無いという問いにラプラスの悪魔みたいに、名前をつけてやろうか。こいつが出てくるとどうにもこうにも、それ以上に先に進めなくなる。

ま、いいさ。人間の定義。「なに」があれば人間なのだろうか。体?精神?思考?意思?生命?健康?さてどこまで含めて、どこからが人間ではない?おもったより人間という定義は、あいまいだとおもう。さて、最低限の人間の必要なものはなんだろうか。脳死した人間は、人間か。植物状態の人間は人間か。定義は時代によって変わる。たとえば昔は、奴隷は家畜だったし。ある程度の身分以下の人は人間とは見なされない時代があった。総じて見ると、人間という定義はだんだん拡大していく、条件が少なくなっているようだ。

未来的にどこまで少なくなるだろうかというのが問題だ。
体は、機械が取って代わるだろう。だから除外。
精神は、ソフトウェア的に作られそうだ。だから除外。
思考も同じ。デカルトさん涙目。
意思は、あるとおもっているだけ。除外。
生命は、これも機械の体とソフトの精神だったら、範囲を外れるだろうから除外。
健康?もちろん除外。

あれ?何も無くなってしまった。人間は、将来特に条件無しと。要するに、その時代で「人間」だと信じられたものが人間だということだ。宗教的アプローチで無いにも関わらず、土台の価値観が信じることに依存することを証明できた。世界というハードウェアに乗った、体というソフトウェアに乗った情報の「信じている認識世界」が全てということですね。

じゃあ、これでどうだろう。認識世界上に乗った「フィードバック回路」=「物語」。これならかなり範囲は広いし、今の技術でもwebサーバとかは、定義の端っこぐらいにいそうな気がする。認識世界で干渉できて、干渉される質点が人間なのではないだろうか。おー結構スマートになった。

人間の定義は終わったから、意味の方だけど。また無意味の悪魔が出てくるから。各自で考えて信じるということで。略。

あなたの私の意味

これもまた、意味なんて無いしね。自分で作ってくれというのが正直な気持ち。昔の人は、自分で意味を考えられなかったのかもしれないけど、今はそれだけの余裕も知識もあるでしょう。誰かの考えた意味に乗るのもいいけど、存在理由くらい自分で考えようよ。そんなわけで略。

とりあえず完成か

何ができたのかよくわからないけど、「何か」ができた。人間の定義とか面白いとおもう。頭がいい人は自分自身で考えてみてください。絶対に思考の奥のほうでぶつかる問題だとおもうし。

さいころはこの世界が小説だったなら、自分が主人公で何か運命があったならよかったと思っていた。自分で作らずに、誰かから棚からぼた餅式の人生。けして、自分が主人公なんて事はなく、普通の人間で、天才ほど能力もなく、怪我すれば痛いし、寿命で死ぬし。ただの人間だった。普通の人間だった。個性なんて、自分を見分けるための記号でしかなくて、中途半端すぎる能力と意識と思考と平凡な姿を一生持って生きるということに苦しんだ。まぁ、能力とかは今でも苦しいけど。

神様に近い位置の天才は、無限に苦しむのだと思う。超えられない壁、存在としての定義。上れば上るほどの無意味の悪魔による絶望。標高が高くなった山みたいに空気が薄くて息すら苦しい。その中で見つける真理と、そこから見えるさらなる絶望と。寿命と存在が消える苦しさと。小説ならそんなに苦しまないで楽しそうにやっているのに。現実はそう甘くなかったりする。飢えと渇きと絶望と喜びと悲しみと幸せと。全てが全てがごちゃ混ぜな人生と。

全てを受け入れて死ぬしかなくて。他の人に託せるから、まだ穏やかに逝くことができる。いや、人生は楽しいね。