強者と弱者の指向性

生生しく語られる体験談で繰り返し語られるモチーフ。
「どうせ、こんな自分なんて。幸せになっちゃいけないんだ」
「同情はいやだ。情けをかけられるのはいやだ」
「それでも、幸せを。生きがいを」
そんな弱者を救おうとするのは、彼らよりもほんの少し強い、弱者だ。
弱者の痛みが分かるからこそ、弱者へと手を差し伸べる。
そして、「誰かを救った」という物語は救い主をときに救い、癒す。


だけど、と思う。
一時的な救いの物語を編み出すことができても、
辛い生を一瞬だけ鎮痛することはできても、
根本的な解決には、一切たどりついていない。
彼らが紡ぎだした、救いと癒しの物語は、
全て徐々に破綻へと向かっているようにも読める。
当たり前だ。
弱い者とより弱い者が持ち得るリソース(ヒト、モノ、カネ)はとても少ない。
(だからこそ弱者なのだ)
彼らだけでは、彼らが置かれている構造を根本的に改善することはできない。

これを読んで久しぶりに思い出した。これは怒りという感情だ。
ランチャスターの強者弱者戦略ではなく、今回の弱者は指向性弱者と呼ぶ。弱者を指向する者だ。
自分はこのような人たちの指向性が一番嫌いだ。そう、この感情は嫌いであり怒り。

まー過去に色々あってそうなったのは認めよう。それはただの事実。
さて次、望んでそのような方向に向かって、わざわざ不幸になる人たちの指向性。これが本当に見ているといらだつというか、あわ立つ。そのような人たちが望むのは、悲劇の物語。問題の解決なんて何も望んでいない。最初から、自分の能力なんて1つも信じていないし、周りの人にも愛されていないと信じている。自分は何も役にも立たないし、自分が不幸になることを何より信じている。

なんというか、構造が悲しいのだ。最初にひっくり返すためのスイッチは自分でしか押せない。最初のスイッチは、「自分を信じる」だろうか。でも、彼らは変わろうとしないし、変われると信じていない。完全に内部でマイナスのフィードバックが外れないぐらい硬く作られてしまっている。

起点を変えれば、考えを変えれば、視点を変えれば状況をもっとよくすることができるけど、それをしようとしない。すでにあきらめ。そんな余裕が無い。

コンプレックス

こんなにあわ立つのは、おそらく自分の過去に同じようなものがあったからなのだろう。見えていないコンプレックス。

例えば、当時自分は自惚れていた。彼女を救えると勘違いしていた。よくある話、救われたのは自分だった。コンプレックスは、自分に見えない風に隠れている。他の人には丸わかりでも。

勘違いでいい。幸せになるという勘違いを、馬鹿みたいに信じるだけでいい。それだけで、世界は変わるのに。悲劇なんて、悲劇でしかない。幸せになればいいのに。