創造と終末のサイクル
世の中はうまく回っている。本当にそう思う。
構築者
人間は有る程度思考の型が存在していて、その中で「思考型」同士の相関関係があるみたいだ。自分が好む「思考型」と好まれる「思考型」はどうやら別々のようだ。有る程度分布があるから、相思相愛になることもあるんだろうけど。自分に持っていないものを好きになるのは仕方ないのではないだろうか。
開発、製造、マーケットの展開で言われる0から1、1から10、10から100にする力。
1・10・100、それぞれの力
新しいアイデアを思い描く能力は重宝されやすい傾向にあります。
しかし、
アイデアが世の中に出て行く過程で本当に大変なのは、
アイデアを思いついた後です。
1・10・100という言葉が示すように、
アイデアを思い描くことを1とすれば、
アイデアを形にするには10、
それを世の中に受け入れてもらうには100の、
それぞれの間で10倍もの大きさの、越えなければならない壁があります。これを優秀さという言葉で置き換えれば、優秀さには、
(1) 思い描く能力
http://blog.livedoor.jp/lalha/archives/50177451.html
(2) それを形にする能力
(3) さらにそれを普及させる能力
これには続きと始まりがあると思う。イノベーター理論やら、宇宙の始まりとかそこらへんを参照すると大体想像はつく。
カオスと構築のサイクル
僕は傷を舐め合うこと自体はそんなに悪いことではないかな、と僕は思っています。しかし、「傷を舐めあい続けられる状況を保つにはどうしたら良いのだろう?」という視点ぐらいはあってもいいかな、と。多少は弱者なりに戦略的に動けることがあるかもしれませんよね。主人公になりたい願望こそ、希望であり絶望です。
http://d.hatena.ne.jp/honehonerock/20070807
自分の守備範囲は、カオスから構造を切り出すクリエイター(能力はともかく、守備範囲はそこ)だ。カオスに自らもぐることもできるけど、そのときにはモードを変えなければいけない。そして、始まりの無の特異点を作り出すよりも、構造を作り出すほうが早いために、常に0の特異点が供給不足になる。
だから、自分が欲しい情報は、新しいアイディアではなくさらにその前の特異点であり質問だ。だから、カオスから0の捻れを作れる人を好きになるんだけれど。そういう人はさらにそれを供給する終末者でカオスを作り出すものを好くのだろう。
ということで、それらの関係を図にしてみた。
やぁ、世界は構築者だけでなく、破壊者もいてサイクルがひとまわりしてるみたいですね。よくできている。
自分の能力分布もその周辺から育てるほうがよいようです。自分ならカオスにもぐるのとプロデューサーとしての能力を伸ばすべきだろう。
優れた人なら複数の地点にまたがって能力を分布させているのだろう。会社であるならば、複数人、複数部署で分散させて保有しているのだろう。一人では何もできないですね。