努力根性論からネットワークインセンティブ論への移行

今は昔かもしれない大学受験。そんなときに信じていたのは、いや信じられていたのは努力根性論。部活動などで鍛えた努力、根性を今度は勉強でと誰もが走り出した。まぁ、そんなことを思い出して、今は変わったなと思うわけ。そんなお話。

努力根性=単体の運動エネルギー

努力と根性を別に否定するわけではない。只、それを維持するための前提があるというだけだ。一人で運動量(熱量)を保つのは至難の技だ。殆どの人は出来ないぐらいの難しさ。一つの丸い玉が100度の熱を持っていて、それを回りにいる10度の玉に奪われるなと言っているのと同じ。無理。やるとすれば、断熱材を自分の周りに敷けばある程度熱は逃げないかもしれない。

こんな事が出来るのは偏執的な好きを持っている人だけ。つまり勉強大好き人間だけだ。普通の人は、そんなに全部が全部勉強大好きじゃないから、無理。人は環境が無いと動けないのです。あと、受検勉強って、やっていると関係性を失うからあまり面白くない。勉強は自分のため。それだけだから。非常に利己的ですよね。

環境を構築する努力

周りの玉が120度ならば、自分の玉を100度に保つのは難しくないどころか、120度に向かうだろう。部活動でも予備校でも何でもいいが、学んだのは努力根性ではなく、環境さえ揃えれば努力をするのは難しくないという事。いい環境を揃えるだけで、自分は勝手に努力して、いい結果を手に入れる。だから、一番必要なのは、環境を構築する力。人間環境であったり、仕事(勉強)環境であったり、そのような環境構築こそが何かを成そうとするときに、何重もループして複利計算で自分にかかってくる。

これらは、言い換える事が出来る。
つまり、自分の努力根性は、自分の中の報酬回路だけで実行するということであり、環境を作るネットワークインセンティブ型は自分と周りの関係性にまで報酬回路を広げ、冗長化している。努力根性は、自分の中の報酬(ドーパミン)回路がうまく働かなくなったら、即終わり。今回もうまくいかなかったな、自分は努力が足りない、自分の根性が足りない。などどいいわけをして、自分の実行自体の信頼性を失ってしまう。バックアップを取っていないデータのようなものだ。いきなり即死する。

一方、環境を作るネットワークインセンティブ型は、そのための環境を構築してから、実行する。自分の中の報酬系が死んでも、周りの環境がそれを助けてくれる。仲間とか、師匠とか大切ですよね。そして、それらが適切なフィードバック系を構築できれば、全体が大きく一つの方向に進む。それが、脳細胞が一つの方向に進もうとする意識と同様だったりするわけです。

例えば、昨日朝6時まで起きていた訳だけど、何をしていたかといえば仕事のプログラム。ちょっと自分のレベルが上がって、新しいことを出来るようになったから楽しくて仕様が無くて、ついやってしまった。別に努力なんて微塵も思っていないし、本読んで徹夜しちゃったくらいにしか思ってない。でも、さらに力がつくし、さらに大きな構造が作れて、スマートなアルゴリズムだったり、記述だったりするとドキドキして眠れなくなる。楽しくて、時間を忘れて没頭してしまう。

学校システムの意味

学校システムは必要だった。それは、環境をある程度整えるという意味で。それはインターネット前のインフラだ。インターネット後の再構築した学校はどんなものになるだろうか。ということで、今そんなものを作ろうとしている。いや、楽しいだろうなぁ。