幸せと複雑性と観測精度
幸せ=判断
世の中は複雑である。それを人は観測し観測精度を適切に保つことで、それをひとつのモノ(オブジェクト)として認識する。
人は幸せになりたいとたぶん殆どの人は思う。その幸せの定義が人によって違うとしても、それは何で判断しているのかというと、脳内ホルモン(ドーパミン、エンドルフィン)だ。何をしてどう感じるかは、違っていても幸せの判定基準という仕組みは変わらない。
例1
例えばこんなひとつの物語がある。
Aさんは毎日努力して勉強をしたので、いい大学に入れました。よかったよかった。
たぶんAさんは達成時に幸せだろう。
観測精度で幸せは変わる
Bさんの視点で見ると、おそらく「なんだそりゃ。そりゃないぜ」だと思う。死ぬつもりは無かっただろうし。でもチームの心には、神経がBさんの痛覚神経に繋がっていません。チームはお客さんとの約束と経済的な利益が絶対で、それがないと死んでしまうからです。
たぶん、世界選手の筋トレでは、何十万の細胞がその影で死んでいる。でも、それをどうとは普通言わない。それは細胞の痛みが私たちに繋がっていないから。それよりも大きな大儀を通すために犠牲者を厭わない。それは当たり前で、当然の話。より大きな器が壊れてしまったら、内部の器はすべて死んでしまうんだから。
人が死ねば、細胞はすべて死ぬし。国が死ねば中の人はすべて死ぬ。より上位の器(オブジェクト)を生存させるために、私たちというオブジェクトは生存している。不意に死んでしまうことは、その当人においては幸せではない。でもそれが上位の器(オブジェクト)のためだったら、それはそれでありなのだろう。自分もそうだが、細胞が死ぬからといって運動をやめたりはしない。
痛みを伝える戦略
誰だって死ぬのは怖い。痛いのはいやだ。
昔の馬鹿げたキャッチフレーズに「一人の命は地球より重い」というものがあった。インパクトはあるが、偽善的過ぎる。「私の命は地球より重い」がおそらく裏の意味。「一人の命」と「数十億人の住む基盤の地球」を比べると一人の命が重いというのは、論理ではなく感情。感情がもっとも働くのは、自分とその身近な人で。感情の中で一番強いのは、痛みとか恐怖とか。
「死の痛みと恐怖」をマスコミがテレビという新しい神経系で伝えた。それは人々の感情を強く捉え、死ぬのはいやだよねということを再認識させる。そして「一人(私)の命は地球より重い」の完成だ。
細胞はどうでもいいのにね。国はどうでもいいのにね。「人」が大切だと思うのは、私の単位が「人」であるためなだけだ。論理的に考えるならば、大切なのは
宇宙>地球>国>組織>人>細胞>たんぱく質
こんな感じの序列になるんだろう。壊れて困る順。
神経系は痛みを増幅させて、本当の痛みを隠す
マスコミは、インターネットはあらゆる感情を増幅させて、他の感情を薄めてしまう。
例えば、「悲劇」はその影の出来事「事実」を隠すのに使われたり。よくある話。
人と人の間を情報を制御できるということはそういうこと。あらゆる世論を操ることが出来る。ただし、今は複数の神経系が根を張っている。そしてお互いに監視しあい、競争している。
たぶん、人々が超短期的に幸せになりたいのだったら、その神経系で「幸せ」を伝達すればいいのだろう。危機よりは伝わりにくいかもしれないけど、チートしているかのように幸せになる。まぁ、それは嘘でしかないのだけど。麻薬を打つように、個々の人は麻痺するはず。でも、たぶんその人たちは「幸せ」だと感じると思わない?
何が本当の幸せか
あらゆる観測制度から見ても、個々の器(オブジェクト)が正常(普通に生きて死ぬ)であること。どんなに幸せであったとしても、それは飽きる。本当の幸せは、幸せだと感じないはず。本当に大切なものは見えないんだ。失って初めて気が付くものなんだ。