幸せシステムは時代に沿っていないのではないか?

幸福とは

幸・不幸は差分だ。
だから、不幸を知れば、幸福感は大きくなる。
変化の無い日常であれば、差分は少ないので、特別刺激的な幸福はないものの、逆に特別大きな不幸も無い

幸・不幸は差分

http://blog.goo.ne.jp/hamp_1990/e/851601020fe6ec01eef18d4d5a41d145/

幸せは、本来感情であり、感情は反応であり、反応は差分である。しかしながら、差分で生きるというのは非常に厳しいものであり、安定、保守当たりの気持ちと相反する。

要するに「気持ち」は変わろうとすることを誘発するための要素であり、それとは逆に変わった時に元の道に戻すための要素である。

そして「文化」は、この幸せを加工する事によって可視化することに成功した。例えばお金の総量で、例えば学歴という序列で。でも実際はこれらの要素は差分ではないので、持っている本人は別に大した事ないなと思うし、もって無い人は嫉妬を抱く事になる。

目指す幸せと、感じる幸せが違うことが問題だ。〜を手に入れれば恒常的な幸せが手に入ると勘違いをしていることが問題だろう。そんなものは無い。お金だろうと、学歴だろうと、結婚だろうとなんにせよ、安定する事で何も感じなくなる。

「幸せの定義」と「幸せを感じる状態」の乖離が不幸だ。

幸福論と脱幸福論

前に読んだ幸福論。たしか、同じような記述があって、目指しているものと幸福な状態が違うんだ。幸福に感じるところに行こうよという感じだった。

まー幸福に感じるのが目的だったらそれもアリだろう。しかし、人生の目的は幸福を感じる事?脳内でドーパミンとエンドルフィンを分泌させること?それでいいの?いや幸せなんだろうけど。

というわけで、今までの既存のアプローチとは違う方法を模索してみる。

幸福条件の加工

幸福はある程度文化的に規定されているというように上で書いた。そうであるのならば、内部記述を変えることで「幸福」の定義を変えることが出来るはずだ。どんな状態になると幸福なのかを再定義できるはずだ。文化的に外部で書かれた幸福状態が、幸福でないのはそれが、内部の記述までを書き換えないからだ。

内部記述まで書き換えることが出来ればそれは、変わる。内部記述を変える方法は、簡単に言うと自己暗示。自己洗脳。方法の方は、探せば苫米地本あたりにあるから、置いておくけど。

ドクター苫米地の新・福音書――禁断の自己改造プログラム

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幸福条件を書き換えるのはなぜなのか。何の目的でそれを行うのか。それは、自分が達成した後で、そのゴールが偽者であることをなくするために。目的を達成する手段として。自分を制御するための方法として。

さて、幸福を書き換えることが出来たらどうなるのだろうか。何を目的として生きているのか?何を達成したいのか?要するに、どうなりたいかを具体的に記述する必要性がでてくる。夢とか目的を外部依存するから変な事になるんだ。受検だってそう、自分は目的を外部依存させた。要するに行きたくなんて別に思っていなかった。思い込んでいただけだった。偽者の目的は動かない。

常識の思考と同じで、自分で責任を放棄したら、外部のルールを目的を押し付けられる。自分で決める能力はあるはずなのに、それが出来なくなる。日本人特有に近いのかもしれないけれど。

幸せくらい自分で決めようぜ。