「理解するという事」と「使えるという事」は別のもの
<なんか、「AとBは同じもの」と「AとA'は別のもの」って繰り返しているような気がするぜ。多分、気のせいじゃない。
使うことに理解は必要か?
結論。いらない。
というわけで、いきなり結論からぶちまけました。使うということには、理解はいらない。例えば、日本語でしゃべるのに、必ずしも正確な文法は理解していないわけで。手を動かすのに、脳神経回路の原理は要らないわけで。
逆を見てみよう。
理解する事に、使える事は必要か?
結論。いらない。
使えなくても理解はできる。理解のみをすることは可能だ。例えば、宇宙の法則を理解しても、使えるわけではないし。他人の気持ちを理解しても、それを制御する事はできない。
さて、この二つの帰結をもってどうするのか?
これをこうして、ああする!
我々は学習を理解する事だと勘違いしていないだろうか?
理解することが、それを使える事の最短ルートだと勘違いしていないだろうか?そもそも「1.理解⇒2.使う」という因果は間違っていないだろうか?学習の目的は何だろう?理解する事?それを使えるようになること?
これは理学と工学の差のようなもので、理学が世界の理解を目的とするのと比べ、工学は理解からの構築を目指す。同じ、学習であっても目的が違えば、することは変わるのだと思う。
その学習はなんのため?
私は、構築のための理解だと思っていた。でも案外使える事からの理解というのも、結構ありなんだと思う。フローというのは、非言語による変性的な意識のことで。それは論理を介していない。それは言語を介していない。それは、帯域の制御と最適化によって、その対象に接続する事だ。それは、ベタな神経回路を利用していて、意識すら使わずにその対象と帯域を取る。
問題は、言語的な問題、例えばプログラムに対するフローはどうすれば取る事ができるのか?理解を介さないフロー状態にどうやって持っていくことができるかだ。
論理は、言語は、感情は全て「それ」を直接触ることができない。「それ」は常にそこにある。私はすでに全てを持っている。それは、論理、言語、感情という限界によってその形を取る事が非常に困難である。「それ」を使用するためには、****が必要だ。
「****」が必要なのだ。それは言語化できず、理論化できず、感情化できない。それは、神経回路そのものであり、世界そのものである。意味はなく、論理はなく、感情はなく。全てが無いけど、全てがある。
というわけで、よくわからないよねー。使う事はできるんだけど。