全能空間という未来

つい先日、興味深い話を聞いた。ある大学の授業で「デジタル・コンテンツ・ビジネス」というテーマで小論文を宿題として書かせたところ、同じような内容の小論文ばかりが集まったという。その原因を調べたところ、「デジタル
コンテンツ ビジネス」のキーワードでググると上位に来る私の過去のエントリーの内容がほぼ丸写しにされていたという。
http://satoshi.blogs.com/life/2008/06/post-2.html

ぐぐる前に考えようぜというお話。

自分がかしこくなったと勘違いしてしまう危険

でも、勘違いしてはいけないのは、ネットの登場によってあなたの頭の中の知識が増えたり、一昔前よりぐんとかしこくなったという訳ではないってこと。何かを知りたいと思ったときに「ネット+検索」という調査方法を使うと探している情報にたどり着きやすくなっただけで、言い換えればめくると答えらしきものがすぐに見つかる魔法の辞典を手にしたにすぎない。
http://d.hatena.ne.jp/hejihogu/20080620/p2

ネットを使って、必ず正しい解が出るわけじゃないというお話。
ぐぐるさん「答えっぽいものが見つかったけど、必ず正しいんじゃないんだから///」
というグーグルツンデレ論では無いと思う。

さて、どっちの話にも同意なのだけれど、何か違う視点で見ることができないだろうかと思ったので、書いてみる。

ネット=外部脳という認識

ネットは知識の保管庫ではない。動的なものだ。例えるならば脳。外部脳に接続するだけで、ある程度の知識とある程度の思考結果を手に入れることができる。それが正しいかどうかは別の話しだし、その正しさのフィルターは自分の思考フィルターに頼るか、そのフィルター自体をネットで見つけるかということになる。自分の思考であるのならば、別なのだけれど、正誤フィルターをネットで見つけた場合は、さらにそれを再帰的にネットで正しいかを探すことになる。どこまで行っても終わりは無いので、経験論から、これくらい調べれば大丈夫という話にしかならない。

だから、一昔前と今で求められる能力が変わったとしたら、以前は情報の保存能力=記憶が価値が高い能力だったが、ネットという外部脳の出現により、情報のフィルタリング能力=判断能力が価値のある能力に変わった。情報はローカル(脳)にためておくことが全てではない。今までは既に知っていることと、本とテレビ、あと知人の知識ぐらいしかなかったし、検索性能は自分の脳以外は極めて遅かった。

それが、今では数秒でアクセス可能な状態で情報がたくさん存在する。情報の距離が短くなった。アクセスタイムが数秒程度ならば、それは思い出すのとそう変わらない。だから便利だ⇒使う⇒使いすぎる⇒自己の脳の弱体化とか、人によって差ができすぎるとか。

それは何を目的とするのか?

最初の小論文の話。みんなネットの文章をコピーしまくったという話。接続先の脳が同じだったら、当然同じ答えが返ってくるよね。ま、それが本人のためにならないというのはもちろん思うけど。ただ、そのコピーした当人は、それっぽい文章がそれなりのコストで手に入った!ライフハック(笑)と思っている可能性が高い。

これを防止するためには、設問自体にネット上のものをコピーしたものは不可とするとか書いておけばいいのだと思うのだけど。ま、それは今言いたいことではないので置いておく。根本の問題は、評価の方法が求められる能力が変わったことで、ずれてきてしまったことなのだろう。例えば、その場で書くのではなければ、ネット可でテストを受けているようなものなのだから。「知る」ことではなく、「判断する」ことに重点を置くべきなのだろう。

ただ、それを教育で行うには、コストが掛かりすぎるので、難しいのだろうけど。
学生の目的は、学ぶことにはなく、単位をとること、卒業することに摩り替わってしまっているのが問題なのだろう。単位をとりたいだけで、能力が欲しいわけではない。ネットに接続すれば、おおよその知識は手に入るが、手に入れられないものも存在する。

それのひとつが、「欲望」だ。ネットに接続したところで、学習欲が沸いて上がるわけではない。渇望する能力こそが、今後は必要になる時代になった。既に学習の高速道路は建設されている。求めれば、与えられる時代になった。しかし、求めている人が少ない。何でも手に入るというのは、何も手に入らないのと同義で、そのオブジェクト(人とか)にベクトルを持たせないと意味があるものにはならない。

欲望を手に入れる

自己を肯定するとか、欲望を否定しないとかそういうことは基本で。本当の自分を探すとか、そういうのもどうでもよくて。
ネットではかなり全てが手に入る代わりに、手に入れたいと強く思うことが大変になってきた。車、酒などの嗜好品の若年層における消費がさがっているのは、お金が無いというのもあるだろうけど、ネットで欲望を満たせてしまうというのも、私はあると思う。

満たされない欲望を設定するというのは、大変だ。偏執的なコンプレックスが必要だ。例えば、飽くなき探究心、研究心、知識欲、創造欲など。コンプレックス(心理的なトラウマとは似ているけど違います)というのは、絡まった目的と手段のネットワークのこと。本来だったら、作ることそのことは手段でしかないのに、それがいつの間にか目的になっているとか。本当に良くあること。気がつくと「それ」をするために、目的を設定するという意味の分からない状態になったり。

それが悪いとか良いとかの話ではなく、コンプレックスは巨大な欲望の重力圏みたいなもので、使おうと思えばかなり便利に使えると言うこと。コンプレックスを乗りこなしてこそ、これからの情報社会を生きるうえで重要な要素になるんじゃないかと思うわけです。コンプレックスライダー。うん、微妙。

接続可能な未来では、判断能力の次、欲望制御能力が求められると思う。