思考停止するということと、それのメリット

昨日のエントリーの続き、情報の信頼性を得るためには再帰的にそれの信頼性を探さなければいけないと言う話と、それをどこまでやるのかと言う話。

ネットは阿呆を量産したと思うよ。自分も阿呆の一人だし。でもな…私はこう考えている。

ネットはただの阿呆を量産しただけではなかった
情報の取捨選択を自分の判断で行う人間を作ったのだ、と。
ネットは阿呆を量産したが既存メディアはどうなんだ?

阿呆というのは、自己の持つ情報で思考停止を起こすこと。でも、これって誰でもやっていることだし、逆に人工知能の世界ではフレームの問題と言われていて、思考停止をどこでやれば良いのか分からなかったりする。

認識能力の強さ

レッテルとか、抽象化というのは、そもそも際限無い情報を取捨選択のために行っていることだ。だから、レッテルとか抽象化をはがした世界というのは、ただそれでしかなくなる。全ての物質が素粒子レベルに認識し、さらにその素粒子一つ一つを全て別のものとしてみる。さらに、時系列がひとつ進んだだけで、前の時空にいた素粒子と進んだ素粒子を別のものに見る。というトンでもない世界が現れる。

いやそんな馬鹿なと思うかもしれないけど、人間の認識(=レッテル、抽象化)能力はそういう処理を一手に引き受け、それを名前で呼べるようにしてある。認識能力すげぇ!!というお話。

だから、レッテルとか思考停止というのは、認識能力の一端がやりすぎてしまった結果。それに認識にも思考とか感情とかが影響しているから、何が正しくて正しくないかなんて存在しないわけです。情報というのは、それは「ある」だけであって、正しさというのは無いのです。あるとしたら、情報の優劣で、それは生命のように優位な情報は繁栄するし、環境に適応できない情報は衰退、最後には絶滅する。

だから上の記事のさらに元記事で言っている「ネットでアホが大量発生!困っちゃうんだよね(情報操作できなくて)byマスコミ」(超意訳)というのは、そういう意味でそういう意味です。

思考停止するためには

さて、人口知能は思考停止をすることができない。その情報が正しいかどうかを判断するために、さらに周りの情報を調べ、そしてさらに周りの情報が正しいかどうかを判断するために・・・以下無限に続くと言うように、際限が無い。人間だったら3回目くらいで飽きて、「もうこれでいいか」ということになりそうなんだけど、彼らには飽きが来ないし、疲れたりしない。

だからと言って、疲れたり飽きたりする能力を実装するというのもなんだか芸が無い話で。なぜ人間は、ここまで調べれば大丈夫だろうと判断できるのだろうか?そして、逆にそれを解除することもできるのだろうか?

「飽きる」とか「疲れる」とか「面倒」とかそういうのって、一見人間の負の機能のように見えるけど、それは必要だからあるようだ。ん、なんだかこれを美徳する集団があったような気がするぜ。あ、ハッカー(クラッカーじゃないよ)だ。プログラムで全てを解決したい人たちだ。プログラムと言うのが何が優れているか?と言えば、際限なくメタ化、抽象化できるからだ。メタ化、抽象化するごとにできるからだ。

際限なく抽象化した後に、自分自身も抽象化して自分の代わりを作ろうぜというのが人工知能で、人間以上の人工知能を作れば、その人工知能がさらに自分を改良して、もっとすごい人工知能を、そしてその人口知能が・・・と再帰的にどこまでも行ってしまうというのが技術的特異点

さて、思考停止が悪いことと考えるのは、果たして思考停止していないか?そしてさらにそれが思考停止していないか?という命題は解けるのだろうか。難しい問題だ。特異点の向こうの人だったら、こういう矛盾を含んだ再帰的な問題も解けたりするのかな?