簡単さと単純さのために失うもの

世の中はフラクタルな繰り返しのなかの繰り返しで出来ていると思うんだ

世界はフラクタルに出来ているように思う。ルールの中で出来た個体が再度ルールを適用される。あらゆるものが繰り返し、繰り返すけど、同じものはひとつも無くて少しづつ違う可能性を探している。それは生態系。素粒子、原子分子、高分子、細胞、人、国、星、星系、銀河、宇宙といった全ての認識殻は生態系を形成している。

そして、乱雑さの増す宇宙の中で、カオスの縁に生まれる逆エントロピー構造体(構造化する構造体)を計算しているようだ。全ての価値は、逆エントロピーで統合できる。そんな宇宙の中で我々は、観測し続け、自己をより構造化させたいと願いつつも生きている。

複雑性とは何か?

我々の宇宙の観測能力は不完全だ。全てを観測することは出来ない。時間的には「今」の0.1秒前くらいのことを網膜に当たった光子を、一度認識フィルターを通して、観測している。光子がたまたま殆ど減衰しないからいいけど(いや減衰しないから観測に使っているんだろうけど)、今網膜に当たる光子「しか」認識できない。全宇宙のどれくらいの小ささなんだろうか。

時間の方で行こう。私たちは時間系をひとつ「しか」体験することができない。あらゆる可能性を捨て去った「今」しか体験することが出来ない。人類的には、100億位の可能性を片っ端から初期条件を再度改良しながら、試行できるけど、私はその1例でしかない。そして私が取りうる可能性の1つでしかない。

それと同じようなことが認識フィルターでも起きている。あらゆる観測された情報を、オブジェクト(もの)として認識したあとに、バックグラウンドに敷いてあるだけだ。例えば、絵画では「見たとおり」書くことが出来れば、それは一般的にうまいというレベルになるらしい。さて、これは問題だ。「我々が認識しているもの」というのはなんだろうか?前の例のごとく、見えたものでは無いというのは確かなようだ。

認識フィルターは、情報をそぎ落としている。複雑性は、多層に渡った膨大な計算から生まれ、私たちはそれを認識でそぎ落として、ルールとして認識している。この世界には本当はたぶんルールは一つしか無いんだろう。我々がそれを理解できないのは、脳内のメモリが、目の画素数が、光の解像度が、時間の流れの観測が、無限の解析時間が無いからなのだろう。

複雑性は観測の能力不足によって生まれる。それは単純性の積み重ねを追いきれないときに存在する。もともとは単純なものなのだ。そして、現在の状況だけで未来は決まらないと言うことが分かってしまっている。この系からは、法則性は追えないそうだ。それが理解できないとき、それは難しく、分かりがたく、理解しにくく、馬鹿みたいに量があって、経験が必要なのかもしれないけど、それは単純なものの繰り返しと、突然降ってくる未来によって構成されている。

この世界は美しいのだろうか?
美しさとはなんだったのだろうか?いや、いまさら中世のヨーロッパのごとく円とか整数、正多角形に信仰を抱いたりはしない。
でも、時間によって美しさが変わるのならば、その「美しさ」は「美しい」のだろうか?

単純なものは美しい。それは乱雑さが無いから?いや、認識できないから?
認識、概念は色あせないし、理想を其のまま脳内に体現できる。理想は美しく、現実は美しくないのだろうか?
それとも、美しさの概念上の問題だろうか?美しさとはなんのための概念なのだろうか?
そろそろ、美しいということがゲシュタルト崩壊してきた。概念崩壊。
でもなんなんだろう、この感覚。感覚上で正しいということに疑念を持つような、ちょっとしたねじれ。