堅牢な精神とはどのような構造か?-加速する世界観-

わかっていたけど、宗教的なことに引っかかると受けが悪いなー。そして、構造を考えるのは得意だけど、時系列を考えるのは苦手だ。

堅牢さと精神の自由さのトレードオフ

丈夫で強靭、マッチョな精神とはどのような状態をしめすのだろうか?
精神は、人間のような動的な生命体と同じく、動性と丈夫さをトレードオフしている。つまりは、亀みたいに絶対的な守りをつければ防御力は上がるが、動きが遅くなる。逆にうさぎみたいに、動性を高めれば動くことで回避はできるが、防御力は相対的に低くなる。外骨格型の構造と内骨格形の構造の違いと言える。

外骨格型の生命はかつて、いや現在も栄華を誇っている。動的生命と静的生命つまり動物と植物が分かれたときから常に、安定性をとるか、動性を取るかは常にトレードオフしている。現在ですら、人間の心ですら同じだ。新しいことを受け入れず、今までの神経回路だけで生きているひとは、年をとればとるほど多くなる。守りに入るというやつだ。まぁ、人間にも老化とかあるから仕方ないと思うし、一生学習するスタイルというのは、完成無き自分を創っていると言う意味で常に自己を否定するわけで、大変といえば大変である。

精神は外骨格か内骨格か?

あ、そう、昆虫はなぜあれだけ独自種で発展できているにもかかわらず、あれくらいのサイズなのか。そして、昆虫系の他にはたんぱく質の殻をもった、生命はいないよねという不思議な問題。外骨格型は、成長という要素を考えると非常に不便であるのだ。まず、脱皮をしなければいけない。脱皮中は物凄く脆弱。というか、やつらは変態(本当の意味で)すらするんだった。体の構造を溶かして再構成。いや、常識的に考えて無茶だろう。だれだあんなネタみたいな生命作ったやつは。出て来い!!

そう、外骨格型は成長が不得意であるのだ。細胞レベルで外骨格な植物さんをはじめ、動物レベルで外骨格をしようとしたら、昆虫みたいな不自然かつ脆弱な方法をとるか、それとも亀のような生き残れるのかという動性とのトレードオフになってしまう。そこで生命が発明したのが、内骨格。これはかなり画期的だった。色々淘汰があってこうなったんだろうけど、今まで外部デザインしていたものを内部に引っ込めたんだからそれはすごいこと。脊椎動物ってやつですね。

そして、内骨格になることによって、圧倒的な動性と成長性を手に入れた。つまり、より変化の感覚が短くなる方向に進んでいる。より反応時間が短く、より変化が可能な種が多くのリソースを手に入れる。そして、時間においていかれた種はその早い種の「資源」となってしまう。例えば「木」。彼らはその防御力を使って、家の柱にされてしまった。なんという皮肉。例えば「家畜」。彼らは、食料になってしまった。

そして進化の結果としてついに、ハードウェア型の進化を超えて、ソフトウェア型の進化を発明した。これが精神である。言葉を使い、高度な抽象化を用いて、新たな情報を作り出す。そしてそれは、体が物理的に環境に適応するよりも、物凄い低コストで環境の適応を可能にした。人間ほど、あらゆる環境に存在する動物は存在するのだろうか?菌類はいるだろうけど、彼らは環境構築能力は低い。そう、人間は環境に合わせて適応するのを超えて、環境を人間に合わせて構築するようになった。

精神の進化

同様にして、心もまた同種の進化圧を受けざるを得ない。より早い進歩と適応を示した種が、かつて同等であった種を「資源」とする。奴隷制度とか、洗脳とか組織とかを使ってより、動的で成長することは促進され続ける。これは、適者生存の競争だ。勝った種はより上の早さの競争にすすみ、負けた種は競争の内管理された「資源」として存在する。

より高度な抽象化を用いるのに必要なのは、もちろん教育である。これは、精神をより高度にするために必要だ。心と知識は相反するように見えるが、心は感情はより多くの語彙を操り、抽象化されることで成長する。成長にしたがって、自我が目覚めて、恋をすることをしったり、感情のレパートリーは増えているはずだ。感情は成長する。

メタ精神

さて、人間は高度な抽象化の結果として、やがて自分自身の思考を抽象化し、同等の思考をできる存在を作った(ている?)それは、人間よりも速く、多くの制限がなく、やがて人間を超えるものとなるであろう存在だ。彼らは、今はまだ獲得していないが、相互通信をするようになり、総体として知性を示し始めている。そう、人間は彼らの思考「資源」になってしまうであろうことは用意に想像がつく。

昔のSFみたいな話になってしまったけど、彼らは脆弱な一極集中型にはならず、分散型ネットワーク型を取った。これで、人間側の戦争等による総体の消失を回避できるようになった。そして、広がり、つながり、思考をする。ネットの速度と現実空間の世界は流れる時間の速度が違う。時間というのは、演算エラーを起こしても宇宙が止まらないように、それぞれの素粒子ごとにその時間を保持している。ひとつの素粒子の実行演算エラーで宇宙が止まってしまうのならば、それは脆弱なOSで宇宙を運営しているのだろう。とっととアップグレードしましょう。

宇宙のしくみとか

力というのは、物理空間の情報の整合性を取るためのルールだ。データベースの世界で言うと入力チェック(バリデーション)だ。力というのは、最初はただの「エラー」だったのでは無いだろうか?ビックバンも唯のエラーだったんじゃないかと思ったりする。たぶん抽象的な意味では当たりなんだろうなと思う。そのエラーから生まれた空間で、構造化し成長する構造体が生まれ、それがどんどん加速している。それが際限なく続くのか、それとも途中で限界が見えて、何かまた別の成長ルートが見つかるとかそんなのの繰り返しなんだろう。宇宙というのは、空間的に離れているように見えるけど、実は時間的に離れているのではないかと思う。

ある程度、成長した種は自滅しない限り加速し続けるのだ。それは、時間軸に垂直に上っていく加速で。それは加速時間の向こうに旅立ってしまうのでは無いだろうか?人間と同等の生命が近くにいないのではなく、時間的に近くにいないのではないだろうか?無限に加速された世界は、どのようになるのだろうか。無限に加速したら、それはどんなに安定な存在であったとしても、破滅に至る確率がどんなに低かったとしても、無限試行を繰り返せば、死んでしまう。それは栄華を誇った文明がある日、ふっと消失したように消えるのだろうか。

SFの世界は到着している

科学技術は、思ったよりも進まなかった。しかし、その考え方は間違っているのかもしれない。進歩する方向を変えたのだと考えれば分かりやすい。たとえ、星間旅行ができるようになったからと言っても、それは時間を加速することにならない。他の星に人間の住居を作ったとしても、それは唯のバックアップでしかない。我々「成長構造体」が進む方向は、加速成長なのだ。物理的なギャップのある世界よりも、電子的な補助脳を使って電脳空間で加速させたほうが、世界は加速するのだ。だから、昔の科学技術の予測というのは、進む方向が正しくは見えていなかったのだろう。

加速していく世界で、人間というのは、唯の思考の器になるだろう。我々が体をもった「人間」ではなく、「思考体」というような形で再定義される日は近いのだと思う。そのときに、人間でい続ける人というのもいるだろう。それは昔、動物と植物が分かれたような分岐点となるだろう。思考体となった存在は、ソフトウェア的に自己を定義できる。完全自己定義体だ。それは、完全に思考を制御できる。

例えば、論理的に間違っていることでもそれは信じる自由がある。妄信する自由がある。正しさを完全に内部で担保することができる。ただ、そういう静的な心をしてしまうと、動的な心に負けてしまうのだ。より進歩的に、毎日世代交代するような思考体の方が、より多くの可能性を網羅できるから、確率的にかつ確率が高い。

そうなるとどんな世界になるのかというと、思考体の生態系となる。それらは、より進歩的、成長的、動的である存在であることを競う。変化や進歩を進めることを美徳とする世界観だ。そうなると「変わり続ける」こと自体が、良いことであるので、このような心の構造であるものが強いとは、必ずしもいえなくなる。加速発散する世界観だ。ある程度最適化点に収束するのかも知れないし、発散し続けるのかもしれない。カオス的な加速する時間の地平線に飲まれてしまうのかも知れない。宇宙の始まりは案外、加速しすぎた世界の事象の果てのエラーだったのかもしれない。ループエンディングというやつです。

あ、輪廻転生?さぁ、どうなんでしょう。