そこに意味はあるのか?

究極的な思考をすると、意味は無い。全てに意味はない。意味を与えているのは、自分の方だということになる。絶対価値真空に漂う認識殻を纏った思考が私だ。こちらからは認識フィルターを通すので、価値も意味も存在する。だが、世界側から見ると、我々は無価値なステータスばかり上げようと努力しているように見えるだろう。興味の無いゲーム上の人間が必死でレベルを上げているのを隣で、冷笑しているような感じ。そう、価値は断絶している。有理数だけでは埋められない絶対的な壁として、価値真空は存在する。言い換えると全ては空である。

脳内価値の幻想

我々の意識は幻想である。そして実体でもある。同様にして、価値は幻想であり、実体でもある。
唯一の価値として宇宙固有のものとして、逆エントロピーが存在するが、それも別宇宙の人にとっては無意味である。価値とは関係性のステータスである。AとBのものがあって、どちらのものがより「おいしい」か、「優れている」か、「赤い」か、「重い」かという固有の感覚フィルターに通して抽象化をしまくって、知識の継承をしまくった結果として、現在の地球価値圏が存在している。それは価値真空に浮かぶ惑星のようだ。いや、惑星なんだけど。

価値というのはこの世界の殆どの物体(人間である物体も含む)にとって意味が無い。まぁ、そんなことを言ったら、限りなく無価値のループが続くので、言わないが。宗教というものは、文化というものは、生きる衝動というものは、それに「意味が在る」ということを叫び続けたら、みんな信じて「価値が在る」とみんな思っているというものだ。まぁ、普通に感情は感じるし、欲望もあるしね。ハードウェア的に「人間」に付与されているプログラムだ。ステータスが低くなると、苦しくなったり、悲しくなったりする。意味に意味なんて無い。価値に価値なんて無い。みんなが信じているからこそ、それは存在する。

金融危機

金融危機があった。信用価値の連鎖崩壊だ。これだけ価値があると信じているものが、あれやっぱりそんな価値なんか無いんじゃない?おっと、これは高いうちに売らなきゃ!やばい!やばすぎる!十万石饅頭!というのが起きたんだと思っている。「在る」と思っているものが無かった。まぁ全てのことは「在る」と信じているから在るわけです。物理的な領域について「無い」と信じるのは結構大変なことではあるけどね。

歴史だって、過去だって、自分だって、国だって、1万円札だって、「在る」訳じゃなくて、「在る」と観測していることを信じている。認識するということは、全てのことにおいて「信じている」というのが前提条件で入る。「目」という感覚器官に入る光子から想像される像を信じている。「耳」という感覚器官に入る「音波」から想像される「音」というものを信じている。全てを疑えば、全ては何も無くなる。「我疑うが故に、疑うという我は存在する」という言葉があるが、疑うという我は存在するのだろうか?

矛盾解

そもそも、「存在する」というのはあるのだろうか。

在るとも無いとも言える。それは「問い」と「矛盾解」で対になっている。矛盾する解というのは一つの答えだ。
禅問答みたいなものなのだけれど。矛盾するループ自体を答えとすることで表現系を深くする。子供のあまり考えない適当な回答を、大人が面白がるのと同じだ。それは読み手が存在して、初めてその意味を指し示す。この宇宙を一つの問いで表すのならば、「在る?」ということになるのでは無いか?つまり、量子力学的存在の不確定。空。

その「在る?」という答えの数だけ、世界は展開する。可能性空間の展開がこの宇宙なのではないか、円周率の無限桁数を求めるような計算過程がこの宇宙なのではないか?計算は存在するか?と言われたら、在るとも無いとも言えるとしか答えようが無い。理論的に存在するが、実存的には存在しない。世界ごとそんなものだ。

価値認識殻のインストール

まぁ、全てはなんだかよくわからん状態ということで、不確定なわけです。そこから、価値の選択が可能になる。全ては正しくも、正しくなくもあるのだから。脳内の価値基準は自己選択がある程度可能だ。全部書き換えるのは、基本欲求とか在るから難しいけどね。大体において、自分の存在する文化圏内のものを選択するわけだけど。まぁ、無い場合は作ることも可能だ。認識の自由?ああそうだ。認識の自由が存在する。

というか認識というそのものと、その認識によって書き込まれたデータが自分だったりするわけだ。認識フィルターを換えれば、それは自分も違って見えるでしょう。世界も違って見えるでしょう。神様がその上にいるでも、いないでも別にどっちでも好きな方を選んでくれたまえ。認識は自由なのだから。まぁその自由というのは、それ自体が結構きついものではあるけどね。何でも出来るけど、何も出来ないみたいな状態。あらゆる可能が、選択できるが故に既に無意味である状態。

自由の苦しみ?いやいや、認識できるのはきっと幸せなことなのだよ。おそらく。幸せは幸せだよね。楽しいは楽しいよね。苦しいは苦しいからイヤだし。どう認識して、どう考えるか、どう感じるかは自由なのだからさ。定まっていない世界を自由に選択すればいい。