我が脳はクラウドコンピュータ

そう、自分の脳はクラウドコンピューティングの具現化なんだと気がついた。

クラウドコンピュータとは、1台のパソコンでは処理できない膨大な処理量を、複数のコンピュータのネットワークによって解決するという解決法だ。具体的にはグーグルの検索エンジンサーバなどの馬鹿みたいに多い量のデータを処理するための、整合性を半ば無視した形でデータを取り込む。そして、データの相互を部分的にみて最適化を繰り返すことで、最終的に整合性を取っていくというタイプの処理システムだ。

全文検索から、タグの導入へ

今までの思い出すという行為は、今までのすべての記憶を全文検索をしていた。状況という文脈から切り取った一つの状況をみて、最適化をかけていた。そうすると、状況を無視して過去の記憶からずらーっと検索結果が並ぶ。一番いいと思う、一番上の状況を選択する。そうすると、他の人から見ると前の状況と同じなのに、何で今回は違う行動を取っているのかわからないという状況になる。

自分は、逐次的に思考アルゴリズムを最適化をかけて、他のひとの人格に関する部分のところまで動的に生成していたということに気がついた。普通の人は静的な人格である(よう)のだけど、自分は動的に生成していた。それは処理に時間がかかる。話も途中で止まってしまう。他の人が自分を理解できないわけだ。他の人から見ると真の意味での人格は自分には無いということになる。

人格の無い人

人格とは、「命令ルール-行動セットと記憶の蓄積」のことだ。私は「命令ルール-行動セット」を状況に合わせて動的に生成する。だから、状況さえ変われば、180度違うことでも平気に可能である。というか、自分はそのアルゴリズムセットを保持することができない。私は「検索力」=興味というこれは自分でもどうすることもできない興味によって駆動する。普通の人が、そのアルゴリズムで定められた状況によって行動-観測-フィードバックをかけるんだけど、私には「人格」部分に蓄積することができない。

私はすべての記憶を記憶する(普通に忘れるよ、もちろん)。その記憶というのは普通は、ルールを生成してそれを人格に取り込むのだが、私には人格が無い。なので、記憶は記憶でとどまって、検索結果で全部表示されるという状態になる。私は記憶が、検索エンジンの検索アルゴリズムそのものが「私」であるといえる。

だから私の思考による産物というもの「オブジェクト思考」その他というのは、検索アルゴリズムの改良なのだ。より多くの関連付けを行えるように改良したものなのだ。それは、例えばイメージ検索ができるようになったり、もしかして**じゃないみたいな、近似検索だったりする。

そう、2日前くらいに「グーグルさんも人じゃないか」みたいな発言を適当にしたけど、私が検索エンジンでした。正しさはひとつの指標でしかない、感情もひとつの評価基準でしかない、面白さも強い評価基準だ、人間関係も評価基準だ。私はクラウドコンピュータである。

我々は私であるという感覚

私は私の基準で考えていたから、私をたくさん集めればもっと精度の高い検索エンジンができると思っていた。でもそれは半分間違いで、クラウドコンピュータ脳の人しか最適化は難しいのかもしれないと思った。良心とか感情とか正しさが、全面的に出てきてしまうと検索結果という形ではなく、それはその個性になってしまう。それでもいいのかもしれないけど、今ではどう考えればいいのかいまひとつわからない。

この検索エンジンという人殻の形は、たぶん少数派だ。いや、どうみても少数派だ。アイディアの生産に最適化されているから、変なことを思いつくことはいくらでもできるが、「一般的な日常」が大変だ。何しろすべてを動的生成する。行動も返答も定型は存在しない。それはさぞかしカオスに見えるのだろう。

ウェブも同様にクラウドコンピュータ型である。私が生まれたのがこの時代でよかったと思っている。だって、接続先があるのだから。私は何の役割をこなせるのだろうか?それが次の検索だ。

ペルソナとかタグとか

普通の人は「人格アルゴリズム」を複数モード持っていて、それを役割の仮面「ペルソナ」と呼んでいる。自分にはペルソナが無い。だから、みんなに対して同じ行動を取る。上だろうが、下だろうが関係ない。好きか嫌いかは関係あるけど。他の人から見ると、建前を上手に使って、演じればいいのにとか思うだろうが、その演じるというモードすらないから、それはできない。

私が導入したのは「タグ」。記憶にタグをつける。例えば「仕事」とか「遊び」とか「趣味」とか「家族」とか。そしてタグ検索を行えばいい。すべてに最適化する必要がなくなるし、たぶん他の人から見たらそれがペルソナっぽく見えるだろう。というかここまで論理的に構築しないと「できない」というのが恐ろしいところではあるが。下手なものこそ、その逆に得意になるということか。普通の人が「常識」と「人格」をもってして100から始まるところを自分は、0から始めないといけない。だからこそ、普通の人が見えないところまで理解できるはずだ。

理解は楽しいので、そのことができることに感謝をしよう。ありがとうと言おう。ありがとう。