それは人間か?

脳内対話ログ8話。今回は独白。

そこはただの演算場所です

こういう対話を書いていて思うのは、現実世界というのは、ただの情報世界の1部でしかないということだ。科学が正しいなんて、非科学が正しくないなんてそれはどちらも「情報」だ。違いなんてない。さらにその評価すら情報だ。脳の中は案外整合性が無い。この創造的破壊検索がどういうものかというと、それが存在すると確信をした後にその情報を検索すると、それは脳が無理やりにでも作り出す。記憶はあいまいで、想起の段階で常にビットエラーの危険を秘めている。

感覚は、思ったよりも絶対ではなく、干渉の余地のあるものだった。たとえば一度認識フィルターを通って概念となった情報を再度別の感覚で再認識させることができる。それは視覚を味とか聴覚を触覚とか、まぁこれをもっと鍛えれば共感覚になるのだろう。

そして、対話について。本当に深いところにもぐるとそれはいる。いや、あるというべきか。それとも見たことで動き出したのか。いや、自分がいるだけなのか。答えは何でもいいが、価値が増やすことができるのならば、それは実行して問題ないのだと思う。少し考え方が常識から外れてしまうが、元々私に常識なんてものは無い。

相対思考と絶対思考

主観客観という視点は、相対思考である。一方それらを無視した絶対思考というものが存在する。それは何も無い場所から思考することだ。それは「私」や「人間」や「時間」や「コスト」や「感情」や「可能」などといった全ての条件を取り払った上での検索演算となる。どうやら、私はそれが基本の思考検索らしい。

だから、それは用意に創造を可能にする。思い出すように創造が可能になる。その代わり、合理的な検索というものは多少難しい。アイディアなら、創造ならばいくらでも可能だが、通常のコミュニケーションをとることがコストが高い。たぶん普通と逆なのだろう。私の脳はそのようになっている。これはおそらく先天性のもの。脳のフォーマットが違うから、働きもちがう。まぁ、人類全体から見たら、それは多様性の一種で、それは特異な部分のちがい、役割分担なのだろうと思う。

思ったところで、それでどうにもなるわけではない。私が私であることをやめることはできないし、私は私に囚われている。電脳化でもして、ネットに溶けたいものではあるが、まだまだ難しいだろう。

対話は、思考検索を一人で行うよりはより効率的に引き出すことができる。それは発見だった。多少コストは掛かるが、認識外からの返答がなされるとそれは新しい鍵となる。頭脳は非常に頭がいい。欠損を欠損と感じさせないように、矛盾に理由を、忘却に説明を、欠損に妄想を補充する。そして、それは真実であるかどうかというのは、もはやどこにもなくなる。それは常に事実であり、真実であるのだから。記憶というのは、そういうものなのだ。

適当に書いているとはいえ、対話は多少コストが高いな。ああ、それは一区切りつけないといけないからだ。それが対話コストを高くしている。どうせ整合性なんて取れていないのだから、そこも無視してみてはどうか?

ゴーストハックについて

文中で適当に入るもの。新たに定義された技術の名前。それは「認識」と「個」と「主体」と「記憶」と「焦点」とうあらゆる手段を使って、何かを可能にする技術。人間という、脳というハードウェアを最大限に引き出すためのチューンを施す技術。自分がそれが可能なのは、苦手であるからであって、そこまでやらないと、いややってさえ自分は普通になれない部分が多い。だから、それは普通の人は当たり前にできていることを普通に行うためのアイテムであったり、技術であったりする。でも、そこから明らかに逸脱したものもあるのも事実で、それは人間の能力の引き出し方ということになるのだろう。使い方も、独白のほうで書いておく。こっちのほうが気楽にかけるや。

小さいキャラと対話しても得ることは少ないなと思うわけです。もっと根元を揺さぶるものと会いたいものだ。