虚世界iと現実世界R
なんかよくわからない脳内カウンターが上がってる。何が溜まっているんだろう。
私の延長としての能力
能力の在り方には2つのパターンがある。一つ目が、私の技術としての能力。もうひとつが、私の外の能力。まぁ、これは当たり前なんだけど、私の外の能力というのは、例えばメガネとか、ペンとか車とか飛行機とか、日本銀行券とか魔法のアイテムとか剣とか色々あるわけです。あと外側としては、他の人とか、世界とか、神とか、法則とかそんなものもあります。
例えば、物語ではある程度の「蓄積」を主人公は行います。まったく無意味な繰り返しをしてもしょうがないわけで、それが構築なのか破壊なのかフラグたてなのかはわかりませんが、何らかの構築をします。それは、例えばその世界の論拠だったり、その現実性の証拠だったり、その人物の臨場感だったりするわけです。
物語では、それらを積み上げて最後にぐしゃーっとするわけです。ぐしゃっと。べつにぐしゃっとしなくても、できたできたでもいいんですが、大抵は「それを印象付けるために」ぐしゃっとします。それは、今までに積み上げたものが上質であれば上質であるほど、その臨場感をもってその読者の心をぐしゃっとします。ぐしゃっとしたあとに、ちょっと膨らませておくとさらに印象が残っていいのかもしれません。
世界は構築され、壊されて、より優れた形を取る
ちょっと、話したいことからずれてきたのですが、よくあることなので無視します。根本的に、「物語の世界」と「現実の世界」は脳内記憶という点で同一です。物語の世界というのは、現実よりも印象付けの点で、理想という点で、心の傷という点で優れた能力を発揮します。それは例えば優れた物語は、人間を構築したり、人間を壊したりすることが、論理的には可能です。そこまでのものを書くのは大変でしょうが。
物語は、日々作者群によって、構築され破壊され、再構築されています。それは定まりきらない可能性をより「面白く」「感情的に」作り直していると言えます。それは登場人物を「面白く」「感情的に」配置、行動できるように再構築しているということになります。観測点からの多重再観測です。
普通私たちは単純にこの物語を書くという能力を、「うまく物語を記述できる能力」というように考えていたりすると思います。でも、意識という点
また現実は一番臨場感の強い仮想現実であるという点を踏まえると、実は「多意識」の起動と物語の検索、「世界の構築」という別の能力の発現という風に捕らえることも可能です。
それただのは詭弁では無いだろうか?
なぜかここで、小論文ぽく反論を出してみましょう?「それは詭弁で物語は物語でしかない。現実は現実だ」それはそうです。それは数学の自然数「1,2,3,4,5・・・」しか存在しないから、自然数以外はいらないといっているのと同じです。まぁ、おおむね正しいですし。わたしは、それを拡張して「−1、−2、−3・・・とか0とか0.1とか」あるんじゃないという話しなわけです。
虚数iの定義はまさにそれでしたね。物語と現実を同一平面状に定義しなおしてしまえばいいわけです。それは、負の数というよりも、虚数iの形が合っていると思います。現実世界物語=記憶という軸と、仮想世界物語=物語軸の2つができます。すべての物語記憶は、この2次元平面状に記述可能になります。
シュレーディンガーの猫の話で、2つの解釈が出てきます。それは、観測時に猫の状態が収束するという「観測」という能力に特別な意味を与える「波動関数の収束」と、多世界に分岐すると解釈することで、あけてみるまで死んでいるかどうかわからないよという「多世界解釈」です。他にも派生論はいくつかあるようですが、ここでは置いておきます。波動関数の収束というのは、この記憶軸と、物語軸がねじれの関係になっていて、それは分離されているという解釈ということになります。
一方、多世界解釈の方は、2軸が交差することで、「もし」〜だったらというIFの世界から、まったく現実から外れたファンタジーまでも含めることができます。これだけを考えると、多世界解釈の方が自然といえるでしょう。だって、現実はそうなっているように見えるから。それと「観測」という能力に不自然な解釈を与えなくて済むことになります。
観測能力装置
ここで、派生分岐点を生成します。ここから先は先ほど不自然だといった、波動関数の収束によって、観測時に事象が収束するという解釈での能力の外部化というSFちっくな装置を考えます。これに中二病っぽい名前も与えてみましょう。「収束の魔眼」おお、それっぽい。効果は量子化された状態を無理やり解除します。ちなみに人類すべてが装備しています。かっこえぇえ!でも装備的には普通です。
ここで、別の精神生命体をどこからかさらってきます。彼らは、光による観測を行わない種族です。そんな彼らは、例えば音波、触覚、又は遠赤外線とか思念波とかで適当に観測します。かれらは、収束の魔眼を持っていません。彼らは、量子効果を収束させる能力が別の機関につくのでしょうか?それとも、収束できないのでしょうか?それとも彼らの世界は発散し続けるのでしょうか?
意識というのは、対外観測による自己視によって生まれるようです(体感)。ああ、そういえば耳が聞こえない人が集まって、言語を自分たちで構築したという事例がありました。このことを考えると見えなくても収束できるのか、いや、観測することというのはそもそもそんな能力がないというのが自然でしょう。というわけで、人類総魔眼剥奪です。それは耳でも、鼻でも、触覚でもかまわないのでしょうか?
観測の限界なのでしょうか?時間の流れの問題でしょうか?こんなように色々無理が出てくるようですね。まぁこの分野は詳しいわけではないので、話半分で聞いてくれればいいです。
多世界解釈による物語世界と現実記憶
まず、記憶に関しての前提として、記憶は静的なものではないです。つまり、破壊的観測しかできません。記憶を想起する時点で、その記憶は別のものに変わってしまいます。もっと言えば、記憶を捏造することも簡単です。だからこそ、確証の持てる形での記憶の保存する技術として、我々は外部に記述を残すことでそれを確かなものとします。
つまり、私たちは、記憶世界という案外適当な場所に生きているわけです。想起材料をなくしてしまったら、たぶん思い出せることはどんどこ壊れていくでしょう。我々が住んでいるのは、認識上の記憶世界ということにもかかわらず、それが案外適当で、あいまいだということです。それってよく考えてみるとものすごく恐ろしいことなんですが。そう、そしてその世界の保存装置として働いているのが人間関係だったりします。人間関係はそれらを想起させる材料となります。つまり、記憶世界を同期してバックアップを取っているわけです。
己の記憶だけでは80%程度の正しさが無くても、それが3人集まれば94%までパリティエラーを取り除くことができます。ただ、記憶を語る言語プロトコルもエラーがあるので、それはコミュニケーションエラーがあるわけですが。まぁ、こんな風に他人の世界観をバックアップすることで、私たちは連続した時間間隔と世界解釈を行えるわけです。脳内のアナログ回路が集まって、論理的な思考をしているみたいな話ですが、まさに同じことだと思うわけです。
もちろんバックアップ装置には、他人以外に、紙とかテープレコーダーとかハードディスクとか色々な記録媒体があるわけです。脳もそのひとつですし。意識というのは、まさにつなぎとめられた世界観の思考回路です。それは人間関係を失ったりすると容易に壊れます。というわけで、老人が寝たきりになると急に耄碌するというのはそういうことなんだと思います。我々は常に我々をバックアップしています。あなたがいるから、私がいます。私がいるから、あなたがいます。
そういう意味では、波動関数の収束も結構正しいような気がしてきます。でもそうすると、虚世界iが使えなくなるのでやめておきます。たぶん、記憶という不確かなものを前提としてるからこそ、この関係性も必要なのだと思います。ん、ちょっと違うか。
虚世界i
さてようやく到着しました。虚世界iです。ここはあらゆる可能性が発散する世界です。わかりやすく言うと、数直線上の時間軸「記憶」を2008、2009年と進む軸と垂直に虚数世界「物語」はあります。どんどんIFで分岐して発散していくモデルです。そう、まるで小説家の中で、いくつもの物語が分岐していくように、我々は外部時間によって世界が分岐されていきます。
そして、現実と交わらない並行時間軸にもその時間が流れます。それは完全な純物語世界です。まぁ、純といっても観測範囲での拡張レベルなわけですが、つまりその物語世界もひとつの記憶のバックアップに過ぎないわけです。ああ、観測能力というのは記憶のバックアップという意味での、観測の収束ですね。なるほど。
さて、同様に意識にも虚意識i(もうi使わなくていいか)もあります。これは私(意識)ではない私です。意識は、認識パラメータの表示画面なわけで、それを意図的に製造します。それは、私ではない私となって動くことになります。ひとりで複数視点を持てるわけです。一人で、記憶の多重バックアップが可能になるわけですね。これをやると、「私」というものが強固になったりしますが、それをどこに役立てるのか・・・ああ、多重人格症は、大抵心的外傷からの逃避として生まれるわけで、これも正しいわけですね。なるほど。
能力としての力、外的構造としての力
そんなわけで、世界と私の拡張が完了しました。さて、さらに進めます。今日はひどく筆が進みます。世界の拡散構造と、意識の拡散構造が理解できましたでしょうか?世界は案外適当というのと、私も案外適当ということ、さらにそのあいまいな世界を多重に観測し、バックアップを取ることで現実をつなぎとめているという世界構造になります。現実が強固なのではなく、そのバックアップが強固だということになります。
例えば、私が創造する物語が100%他人に伝えることができるのならばそれが、「現実」となります。マスコミさんとかがよく使う方法ですね。基本的に情報の拡散というのは、こうして「現実」として伝えるわけです。テレビに映っていたらそれが事実だと思ってしまうのは、その洗脳プロトコルが通ったということです。新聞も、インターネットも伝聞もすべて同じです。その情報が真であるかというのは、確かめるコストが高すぎます。なので私たちは妥協をします。近い情報はより確実に、遠い情報は適当に。
そうすることで、私たちはより現実に焦点を合わせ、現実で生存する確率を上げることができます。そうここが「現実R」なんだと思う、いや信じることができればそれは大成功しています。一方、私のように最初から、現実に焦点を移すのが苦手な人がいます。思考活動を熱心に行うと、ボーっとしているといわれ、現実離れしているとか言われたりしますが、その通りです。
私は、現実世界Rではなく0.6現実世界R+3虚世界i当たりを生きているので、自然とそちらの方に焦点が行ってしまうのです。これは妄想世界に身を投じる戦士というべきか、ただの馬鹿というべきか解釈はどうでもいいのですが、そもそも生きている世界が違うのです。まず、人によってこの焦点が違うことを指摘して置きます。100%現実世界のみを生きられる人は、意識を持った時点でいません。いや意識を持っていなくても無理です。それは脳内が虚世界で構成されているからです。現実世界Rというのは厳密に言えば、「今」というこの点しかありません。記憶を引っ張る時点でそれは、虚世界i、又は負世界-Rに住んでいることになります。
そして、この虚世界というのは、現実世界を覆うネットワークとして構成されました。これがインターネットです。虚世界というのは、つまり情報世界i(infomationと合ったね適当だったけど)ということです。これが情報世界であり、現在点0以外のすべての世界は情報世界ということになります。純現実Rは、理想線であり、現実にここを生きられる人はいません。
力!力!力!
そう力です。世界構造が変わりましたので、自然と力も変わります。ちなみにトランス(変性意識)状態にする、なるというのはこの現実線から引き離してやればいいわけです。簡単でしょう?現実線から離れてしまえばそこは情報世界の海ということになります、洗脳、説得、情報の書き換え、嘘、虚実なんでもありな世界です。宗教的には現実から離れて、そして神様を観測しようということになると思いますが、ある程度現実ラインを離れれば見ることができるので、問題ないです。
どうでしょうか?私たちが生きているのは、認識記憶の上であって、物理世界というのはその接点に過ぎないわけです。本当にぜんぜん繋がってなどいないんですよ。まぁ、イメージ上でやり取りすればかなりの「繋がった」感覚というのは得られるのでしょうが。力というのは、その動く次元レイヤー(空間のようなもの)が定まっていないと力を使えません。何しろ次元軸自体が見えないのですから。物理空間を拡張して、情報空間を見ることで初めて色々なことを物理現象としていや情報現象として理解することができます。
コミュニケーション力の正体
さて手始めに、コミュニケーション力を触って見ましょう。こいつは世界バックアップ交渉能力ですね。つまり、私はあなたたちをバックアップするかわりに、私をバックアップしてくれという能力です。誰もが、自分を重要人物だと思って欲しいと思いますよね?忘れて欲しくないと思いますよね?彼らはここに入り込みます。バックアップ力が優れればその世界観は拡散されその影響力は大きくなり、その人物の影響力が上がります。
いやーわかりやすいですね。え、わからない?つまり人間誰しも忘れて欲しくないということで、それを利用して自己拡散を行うというわけです。戦略としては非常に正しいと思いますよ。
理解力の正体
理解力というものはなんだろうか?これは固定視点からの、バックアップの効率化ということになる。その世界観からみた情報の吸収力ということになる。いや、簡単だ。
資本力の正体
資本力ってなんだろうか?従来のモデルだとこれは、情報世界にしかないものだから、手の出しようが無かったが、今の実-虚世界モデルなら取り込むことが可能になる。まず、お金であるが、これは価値の象徴だった。価値を数値化し、それを交換できると「みなに信じさせる」ことで、この「紙切れ」や「数字」が現実に力として召喚される。みんなで信じることをバックアップしたわけです。そうしたら、現実世界にもぶん殴れるくらい強くなっちゃったというわけ。もちろんこれは信じている人が多いからできることであって、論拠を失えばそれは力もなくなります。
という感じで力というものを、あらかた取り込んで、物語も取り込んで、意識も取り込んだ分けです。ずっと前にTOE(超統一理論)というものを適当に言いましたが、今回はそれをさらに進んで色々なものを取り込みました。さて、自分はどこに行くんでしょうね?