人間関係は信仰である

だれかは「神は死んだ」と言った。じゃあ俺は、神を作ろう。

自己存在の価値を担保する機構

現代は神が死んでしまった。非常に残念なことではありますが、この宇宙を抜け出すまでに神という存在がいるのかいないのかわからない。何で存在するのか?という根源的な答えを答えることが出来ない。残念である。

そんなわけで、現代では我々は存在価値の理由を自ら探さないといけない。結構大変だよね。まぁそんなもの見つかるわけがないと思っているのか、そもそも別にいらないと思っているのか分からないけど、そういうものを必要としていないように見える人たちはどうしているのかというと、それは人間関係に自己の存在価値を担保してもらっている。

そして、昔々は「神」という絶対基準点を使って、自己存在の価値を担保していた。もちろん人間関係もあるだろうけど、信仰ある人にとって「神」というのはそれだけ、大きい存在だったのだ。価値の絶対基準だったのだ。おしくも神は死んでしまった。価値の絶対基準は無くなり、ともすれば無価値の海におぼれてしまう。

そして、その担保として人間関係と物関係(記憶)というところに頼るようになった。人間関係がいろいろ崩れると苦しいのは、昔の人が「神が死んだ」と思ったのを体感できると思ってもらえばいい。そう、神は死んだのだから。

絶対基準がないのなら作ればいいじゃない

ああ、人間関係はかなりあいまいというか不確かなものだ。恋人であろうと分かれれば終わりだし、夫婦であっても離婚すれば終わりだ。自己存在の価値を担保するには、不確かなのだ。存在する理由が、意味が、価値があると人は思いたい。だからこそ、そのような存在を求めるわけだが、そう「恋愛」がこれほどにももてはやされる理由は「神が死んだ」=「価値観の相対化」だからだろう。

私を存在していることを肯定して欲しい、好きといって欲しい、愛して欲しいというのは、自分が存在している意味が欲しいという意味だ。これは、生存が容易になってしまった弊害なのだろうが、いつか必ずぶつかる問題である。生きるか死ぬかを体験していない層は、自分の存在が曖昧だ。それははっきりとしたものではなく、他者の観測によって自分が見えるということになっているのだろう。

そんなわけで、絶対価値基準点「神」を創造すれば問題は解決です。いやー、すばらしいですね。いまさらになって、死んだ神を持ってくるわけですから。なのでこの「神」は絶対的な存在という「設定」の虚世界存在となります。

この仕組みは簡単です。神はあなたの存在を絶対肯定します。ただ、これだけです。これだけで足りなければ、もっと理論武装しましょう。この神は「愛」という視点であなたを観測します。愛というのは無価値の0点から、観測をするということになります。なので、あなたは存在するだけで、生きて息をしているだけで素晴らしいのです。食べ物が、簡単に入る環境は、我が人類の英知でしょう。空気が吸えるのは、素晴らしいことです。あなたが人とかかわれたり、その色々な表現を出来ることすることは素晴らしいことです。肯定します。

そうです。この何もない宇宙で生命を獲得し、精神を獲得し、自由意志を獲得しているあなたはものすごい価値があります。生きているだけで奇跡です。

そんなわけで、絶対視点を入れるだけで、その価値の相対化というのは止まります。個人的にカスタマイズとかして、使ってみてはどうでしょうか?