強い観測と弱い観測

ひどくあけましておめでとうございます。
既に、今年が焼け付いて幾日も経ちますが。

観測するということ解釈するということ

未来は不確定な場所にあり、観測することで形が変わる。過去は、不確定な記憶という場所にあり、観測することで形が変わる。現在は、それを感じるという幻想なだけ。価値観は、飽和しておりすでに価値観としての用を成さない。ああ、そうだ。私は不確定なひどく曖昧な、そして混沌としたカオスの中にいる。

我々は、自らの認識の中に生きており、それは妄想と違いは無い。ただ、その妄想が他の人と通じるかどうかだけで、それが正しいと判断をしているに過ぎない。我々が現実と認識している世界も、妄想の一種に過ぎず、人生に意味など無く、世界に意味など無い。そこに意味づけをするのは自分の側であり、その意味とは「それ」が「そう」であると信じるということであり、我々の人生そのものは、その「信じる」一点にのみ支えられている。そう、信じることこそが、その意味が存在することを証明する唯一の解であり、その解もただのトートロジーに過ぎない。

我々の脳という装置は、都合のいい幻想を見せるのが非常にうまい。我々が、意識を持っていると妄想させ、信じさせ、妄信させ、それを疑わなくなるような妄想をナチュラルに分泌できる優れた装置である。それは、私たちが世界を、いや自分をコントロール可能であるということを信じたいからだ。我々は、その神話を信じていたい。

破壊的観測

量子的な世界では、観測することでその観測対象に影響を与えてしまう。それを見るということは光子をぶつける事に等しいし、それを計測するということは何らかのレスポンスをその対象物から得ているということになる。それはどんなことでも同じではないだろうか?例えば記憶、再生すればするほどそれは変化をする。それは未来もそうなのだろうか、まだ不確定な未来もそれを予想し予想をしたことに対してこちらが反応することによって、その未来は破壊される。それは、ボールをよけるという動作だけをとっても、未来を観測しその観測結果を元に動き、その結果が変化をする。

意識も同じものなのだろう。我々は予測が優れていくにつれて、自分自身の予測を含めた予測モデルを作らないとうまくいかなくなった。その自分の認識内の自己モデルが意識だ。我々は、その認識モデル内で、自己を認識する。そして「認識した自己」が動作すること、考えること、思うことを予測しそれを観測する。「私」という主体は、「私」が都合よく自己を認識するためのモデルに過ぎない。

そのモデルは、まるで我々が主人公であるかのような「物語」を我々に提供する。なぜ、主体が「私」なのだろうか?それはひとつの物語ではないだろうか?自己を得ることというのは、ひどく正しく唯一の「私」という幻想を持たせることになった。私が住んでいるのは、そういう妄想の中の物語。そこでは、みんなが意識をもって、心をもって、感情をもって、自由意志をもって生きていると信じている。みんながあまりにもそれを妄信しているせいで、疑う人もあまりいないし、いてもそれが都合の悪い「物語」であるために、それが主流派にはなりえない。

だって、その物語は「私」という唯一の存在を破壊してしまうのだから。

「私」という主格幻想

私は考えているという幻想。いや、それは私?無意識の自分(ここでは操作不可能な自己という意味で)ではないのか?
私は感じているという幻想。それは、確かに痛いし、うれしいし、悲しいし、おいしいし、暖かいし、冷たい。それを感じているのは「私」?
私は「存在する」という幻想。私の存在の定義はひどく曖昧だ。それは、どこからどこまでが自己かという定義を明確にしない。それはなぜか?それは定義が出来るようなものではないからだ。どこからどこまでがあなたで、何を失ったらあなたでなくなるのかというのは、それは「あなたがあなたであると信じられる」範囲で、あなたはあなたであるし、その逆に「あなたがあなたで無い」と信じられる範囲で、あなたはあなたではなくなる。

「私」という主格は幻想である。
よって、「あなた」という客体も幻想である。それは社会的認識観測モデルに過ぎない。

幻想空間(Imaginary Space)への拡張

それが、事実か、真実か、うそか、本当か、正しいか、正しくないかにかかわらずその「主体-客体観測」モデルは現代、人類上においてデファクトスタンダードとなっているのでそれは予測モデルとして効果を発揮する。そう、このモデルが普遍的に使われている「意識」の正体だったりする。

自分はついこの間まで、「主体-客体観測」モデルが無かったので、どうしてもほとんどの人が当然理解できるようなことが、理解できなかったりした。それは、内面を予測する感情モデルだったり、複数の観測問題を解く、多体問題だったり。非コミュと呼ばれる人間がなぜ、そのような振る舞いが出来ないかというのは、それはこのモデルが確立できていないからなのだろう。

ちなみに自分がどのように認識していたのかというと、「認識=世界」モデルだった。それは認識したことが世界のルールで、それをどうするのかという主体は存在せず、見られるという客体も存在せず、ただその世界と同化してシミュレーションを行うというモデルだ。それは世界と自分が乖離していない、その世界さえ縮めてしまえば没頭するというモデルだったわけです。

そんなわけで、さらに拡張した自己認識モデルが作れるはずなのです。ただ、あまりにもぶっ飛んだモデルは、他の人とのモデルのすりあわせが大変なので、幻想空間側*1に拡張を行うこととします。ちなみに物理世界に拡張しようとすると、頭をもうひとつとかロボトミーとかグロいことになるのでお勧めできません。電脳化できれば変わるんでしょうが、現在はまだできませんので。

拡張された世界観/私=物語クラスタ

私を群体にするモデル。多重人格による、複数観測モデル。ここでのコツは、主格意識をMasterとしないこと。主従関係としてしまうと、すべてが意味がなくなる。すべての命令を聞く僕はもはや、同格となる。そのため、ここではあえて、別格の観測視点を脳の中に生成することとする。

拡張された世界感/すべての認識=妄想現実

すべての認識を、妄想空間に浮かぶ認識世界とする。現実もまたひとつの物語である。主体は、おのおのの物語を交換し、すり合わせ、それを現実だと再認識し、臨場感を高めている。たぶん現実空間とのコミュニケーションができなければ、あっという間に現実は砕ける。それは例えば、洗脳においての、やまごもりだったり、色々なイニシエーション(儀式)として存在する。このシンボルとして「死と再生」というものがよく使われている。

それは生まれ変わったと表現したり、その認識の断絶を認識したりする。このことを意図的に利用する。2週間で一度生まれ変わる設定とか。今日死ぬ設定とか。この設定であなたの行動はどう変わるだろうか?あなたはどう動く?世界の見え方はどう変わる?ちなみに「死と再生」の儀式は、適当に自分で作ればいいさ。主格継続なんて幻想なのだから。それは記憶の幻想。

拡張された世界/「 」

(ああ、すべては「 」だった)


拡張された世界/「愛」

それは妄想を含めた無条件のあらゆる存在の全肯定。



世界は、私はゆとみ、たゆりながら漂う

新しい言語を思いつきで使ってもいいよね。意味は適当。

*1:虚世界とか妄想世界とか呼び方統一すればいいのに