主格は自覚を幻想する

意識は「現実」という幻想の物語の主人公である

意識というのは、主格なしでシミュレーションをしていくうえでの限界点、つまり自己の干渉を考慮に入れた現実認識モデルにおいて、主格無し型には実行不可能な「シミュレーションする自己」の再モデル化を含めたシミュレーションモデルである。人格というのは、自己の単純化認識モデルである。この「主格」幻想を手に入れることで、人類はより広範囲な人間関係をモデル化し、シミュレートすることを成功した。また、主格という幻想ではあるが、物語の主人公を作ることで物語への干渉が可能になった。

そう、現実という物語に乗った「私」という主格は、シミュレーションのためのモデルである。この意識的私というのは、うまく現実だと思い込むことで、観測された世界を干渉する力を持つ。つまり、私(意識)たちは意識的に動いているという物語の中に生きている。この物語は非常にうまくできていて、それ以外の「人間機械論」的な言論を排斥できるほどに、臨場感を高めることに成功した。

「自由意識」幻想とでも言おうか、動物が持っていない我々だけが持っている(少なくとも地球上では)と思っているものが、物語上のシミュレーション結果に対してというのが恐らく物理世界での事実なのだろう。我々は認識世界のシミュレータであり、シミュレータの中の主人公が「私」だと思い込んでいるという存在である。でも、実はシミュレータの方が私であって、シミュレーション上の主人公は、幻想である。

主格生成以前の状態

それでは、その自己の行動も含めたシミュレータができる前はどうなっているのだろうか?自分の場合は、シミュレータには「自己が含まれず」主格も客体も存在せず、強い意志を持ったり、目的を持たずに、なんとなく生きるというか転がりやすいほうに転がるという風に考えていた。これは、主格が存在しないために、外部の物語に干渉できると考えなかったためであると考えられる。また、感情ももちろん存在するがそれは快不快というレベルであり、「自我」が「感じる」物ではなかった。

たぶん、私は主格においては、普通の人の幼稚園児か又は小学生低学年レベルで止まっていたのだと思う。それは、自己の性質がそうだったからとしかいいようが無いのだが。そんなわけで、現在は少しは成長したかなと思うしだいである。

コミュと非コミュの能力の違い

よくコミュニケーション能力がどうのこうのという話がある。自分はまったくを持って、他人の言うことを聞く気が無いので最悪であるのだが、このコミュニケーションの問題というのは、「要は勇気がないんでしょ?」的なとりあえずやって見ろよオラオラ!的なアプローチや、新卒の泊り込み合宿での既存の自己の破壊による無理やりのアプローチ、そもそもコミュニケーションとは?みたいな終わらない定義ゲームで遊ぶだけだったりしたわけだ。

つまり、実践で鍛えるしかなくて、そもそも苦手であるからコミュニケーションが苦手な人にとっては、でどうするの?とか、やってみたがわからないというレベルで留まる事が多いというよりも、ほとんどであろうと思われる。それは、自分で言うのならば「当たり」がわからないから。シミュレーションしようにも、そもそも認識存在に「他人」がいない。つまり、世界がある(自分と他人はいない)という認識モデルだから、自己はそこに含まれず何らかのアクションを取って目的を達成するというのは非常に困難というか、行き当たりばったりになる。

コミュニケーション力の本当の問題は、意識や主格を含む「認識シミュレーションモデル」にあるのであって、その人が勇気が無いわけでも無いし、人格を壊したからといってシミュレーションモデルが高度化するわけでも無いし、定義ゲームをしたところでただの言葉遊びで終わる。そもそも、コミュニケーションというものが、どんな認識のベースに乗って行われているのかがわかっていないのだから、当然絶対に解けない問題をしているのと同じだ。

人間性の定義と主格幻想モデル

普通の人には、人間性というものが、どういうものであるか?というのが無意識に理解しているのだろう。私にはわからないことが多いのだが、その関係性から自然発生的に生まれる「人間性」というものは、つまり「主観を持って現実という物語に没入する私という意識の複数存在する世界感」のことなのだろう。これが、自然に学習されるからこそ、人間は人間でいられる。そしてそれを学習できなければ、非人間として存在しなければいけない。精神病という定義があるが、自然な心とは、人間の心とはどういうものなのかわかっていないのでないか?

自明な物として、当然理解できるものとして、理解されてはいないだろうか?精神病という心の形も、またひとつの「人間」の観測モデルに過ぎない。つまり、多数派が当然という「心」こそが自らの認識モデルに由来していることを、ほとんどの人は理解していない。正しい心なんて無いし、それは多様性に過ぎない。それは現在の「心」モデルの限界を容易に超えることができるだろうし、見えている世界もそもそも別のものになる。

次の心モデルはどうなるのか?

人類が主格人格モデルを作りだすまでに恐らく100万年単位かかっているのだろう。そして人格モデルはまだ2000年ほどしか経っていない。でも、次のもっと優れたモデルは絶対に存在するはずだ。それは、脳がコンピュータと接続し、さらに複雑なモデルシミュレーションができるようになったときなのか、それとも肉体の体のまま可能になったモデルなのかはわからないが、確かに可能性として存在する。その形が少しでも見れれば楽しそうなので、もう少し考えてみることとする。

繰り返すが、現在の「心」、「人間性」、「私」というのはシミュレーションモデルに過ぎない。それらは変わるし、変えることができる。私は次のそれらを志向しようと思う。