ラプラスの魔とゲーム

なぜゲームがおもしろいと思えるのか?

なぜ人間はゲームをするのか?ゲームというものはなんなのだろうか?「遊び」という行為自体は、類人猿でもほ乳類でもある程度見られる。そもそも、遊びとかゲームというものは何のためにあるのだろうか?ただの暇つぶしなのだろうか?それとも意味があるのだろうか?

私の答えは、もちろん意味があり、それは「未来予想のためのシミュレーショントレーニング」なのだろうと想像する。考えられる最強の知というものは、ラプラスの魔と呼ばれる。これは、現在のあらゆる条件を知ることができれば、全未来をシミュレーションして知ることができるという存在だ。これは未来予知ができるということに等しい。

未来を予想すること

ハンター×ハンターで「未来を知ることは最強の力だ」という言葉があるが、その通りなのだろう。我々人類は、生きている世界を抽象化し、モデル化することでその予測の射程を上げていった。我々は起きてから神経によって観測するのではなく、起きる前に予測して対処することでこの地球を制圧した。

人類が地球を制した後も、人間同士が敵対し、有利な戦いを行うためにひたすらに予測の精度と射程を上げるべく血道を上げている。科学というのも、その一つの方法で、それは成功した。体系化し、誰でもその恩赦を受けられるようにした。

科学がより多くの法則を探し、より予測可能な未来を増やした。しかしながら、ラプラスの魔というのは、量子力学ハイゼンベルク不確定性原理により、正確に計測しようとするとどうしてもそのものに影響を与えてしまうために、正確に計測するというそのものができないということがわかった。さらに、量子力学的なミクロ世界では電子の位置がランダムな位置をとるらしいということがわかり、ラプラスの魔はその夢を終えた。

ラプラスの魔/人間版

すべての粒子を解析するのは、無理だとわかったが、可能なシミュレーション限界はどこだろうか?実現可能なシミュレートモデル、選りすぐれた解析結果はどうすれば手にはいるのだろうか?人間というものは、自分たち「人間」を単位としたモデル化をした。それは心というもの、それは人格というものだ。バックグラウンドで動いている無意識を単純化し、シミュレート可能な形にまで落とし込んだものが、人格というものだ。

それは実態ではなく、表面のモデルでしかない。ひとは、自分と同じ心が他の人にも備わっているという前提を作ることで、相手の心をシミュレートしようとする。もちろん、シミュレートにも限界があり、一般的にこうすることでこういう反応を得ることができるというものと現状の認識の組み合わせによってそれを計算する。そして、他の人の心を共感することが人間というものだ。

人間はより先を見たいのだと思う。だからこそ、根拠の無い占いにお金を払ったり、破滅的な予言を信じてみたりする。現実には「物語性」なんてほとんど無いのに、そこから物語を創り上げてしまう。そして、それが納得のいくものであればそれを信じるのだ。それには正しさなんてなく、その当人の納得がいくかというだけにすぎない。そして相互に物語を共有すれば、それが現実になる。

物語、予知、創作、ゲーム

おもしろいとは何だろうか?よく考えてみると味覚とか視覚とかに比べて、なぜそれをおもしろく感じるのかというのは、一見わかりにくい。でももちろん答えはあるわけで、おもしろさというのは脳内でパス(Path:行程という意味)が通ったときの快反応なのだろう。学習の正反応といってもいい。人は、物語によって世界に意味をつけ、予知をめざし、そのトレーニングのためにゲームを行い。世界に新たな意味を与えるために創造を行う。人間は、お互いに予測合戦を行っており、それがより距離と精度がでるほどに「頭がいい」といわれる。もちろん、分野によって全然必要な能力が異なるが。

次世代格フレームワーク

いや、そもそも「人格」というものが理解のためのフレームワークであるのだが。より次の世代の格フレームワークというのを検討してみる。シミュレート計算速度が、10倍、1000倍、10000倍になったときに何が起きるのだろうか?たとえば、自分だけがそのようにシミュレート可能計算量が増えればそれは、より多くの支配、制御圏が増えるのだろう。しかしながら、すべての人間がそのようにシミュレート可能計算量がふえても、お互いの内部計算がその分増えてしまうので、それほど意味がない。予知を予知で打ち消してしまうような世界が広がるだけになる。

今だっておそらくそうなのだろう。人間は、動物から見るとこれだけ高度になってしまった。人間性というものの前提すら考慮しないで、高度な計算を行っている。そして、そのことすら認識するまでもなくなっているというのは、人間の素晴らしい部分なのだろう。

予知や、予想というものは、一般的な普通という偏差値から離れた差分にしか価値が無くなってしまう。みんなが明らかにそれは次にそれが起きるだろうと考えられるものは「未来予想」たり得ないのである。だから、みんな次を見ようと未来を探そうと必死で戦っている。学者は予想する、人は予想する。そしてより高度な予測モデルを作り、次に起きるであろうことを制御範囲に入れておきたいのだ。

たとえば考えられる可能性として、標準から外れた格を集めそれを並列計算させて未来を予測するという手段がある。また、予測ではなく創造による未来の配布という手も存在する。

価値

未来に価値があるのだろうか?未来はそれだけの価値があるのだろうか?戦略上他者より有利になるための情報という面ももちろんあるのだろうが、予測というのは時間軸に対する視界なのだろう。知識というのはその予測の手段である。シミュレートというのはより多くの範囲を知りたいという「未来」に対するしろうとする行為なのだろう。

人間は永遠にラプラスの魔になれないが、なりたいと飢え、願い、渇望し続ける存在だ。それは神になりたいがなれないのと似ている。欲しいものは他者に対する優位性であって、その絶対制御範囲ではないのだ。