意味消失と主観的死

なんか書かないと主観世界が先に進まない。

人間とは?

人間性(humanity)から定義される人間という存在は、お互いに支えあうという「人」の話のごとく、「シミュレートする存在が複数いて、その結果を変化させると、その結果によって相手の反応も変わって・・・」というシミュレーション上の限界のために必要となった「行動する未来観測点」のことだ。この定義によれば、人間は「1人」では存在しないし、子供のごく幼いときとか、ボケてしまった老人とかも定義から外れたりするが、それは人間が予想と記憶によって自己定義、他者定義を保持し続けるからだろう。

主格行動が自分で一定のルールができればいいと思う。人間という定義に入るためには、自己人格の定義が必要となる。だが、私はどうだろうか?私は、主格が自分で定義できなかった。それは、繰り返す毎日が本質ではなく、跳躍する閃きこそが自己の本質だと考えているからなのだろう。私は、自分の繰り返す性質についてなんとも考えていない。それよりもただ、次のひらめきがほしいだけなのだ。だからこそ、私はランダムの行動を取り、他の人からは理解ができないと言われ、私もその点については理解ができないし、無理やりはめると自分には何も無くなると思ってしまう。

異質な存在は人間になれない

人間性から導いた人間は、前提条件に同格の存在が複数関係性のネットワークを作っているということがある。ならば、異質の存在は人間足り得ないのではないだろうか?逆に言えば、ロボットだろうと、幽霊だろうと、死体だろうと、ゾンビだろうと、魔王だろうと、神だろうと、コンピュータウィルスであろうとも、このネットワークが作れるのならばそれは、「人間」なのだろう。

私たちの世界の担保は、物と人の関係性のネットワークでしかない。お互いに観測し、干渉することで存在を確認しあっている。そこにニュートリノのような誰とも干渉しない存在がいたらどうだろうか?彼は、ネットワークを形成することができない。それは人間か?それは幽霊か?それは存在か?人間という定義は、その定義自体に復元力を持ち、異質な存在を「排斥」するような干渉力を行使する。それは、欧米よりも自我の薄いといわれる日本人には、ものすごくよく見られる光景だ。

アンチヒューマニティ

人間性という、「人間」自体を定義する事柄によって、我々はそれらを排斥し、拒絶し、けして認めない。人間というのは、人間自体がその存在定義そのものによって、争いや戦い、差別や、憎しみ、悲しみが存在している。それはけして終わることが無い。平等は幻想だし、人権も自由も、自由意志も幻想だ。「人間性」という人間定義そのものに、それが書かれているのならば私たちはその手のひらの上で踊っているだけに過ぎない。

人間性が正しいのか?間違っているのかなんていう話ではなくて、それは私たちの世界を支配するひとつのルールとなって我々を裁いている。よくSFとかアニメとかでは、とち狂った悪役が、「人間」そのものに干渉してこの問題を解こうとする。聖書では暁の子ルシュフェルが、自由意志を奪うことで、エヴァではみんな融合だとか、感情を消去とか、人類を消去とかそんなのだった。この「人間性」の問題を解くためには、まず「後退」はありえない。

つまり、意思をなくせばいいという方向に進めば、それは対価しているだけで停滞しているので却下。だから、人類絶滅とか、宇宙消滅とか、感情消去とかいう方向は、ただのアンチの過激派であり、全部「0」にすればいいよという意見で価値は無い。だから残りの先に進めそうな物を探すと、「人間性の定義の多様性」と「個の問題の解決」とか「ハードウェアの改造」とか「新たな個体の作成」とかだろうか。又は、人類総教育という名の洗脳を行って、定義を広げるとかだろうか。

我々は何と戦っているのか?

なぜ我々は、こんなにも戦う必要があるのだろうか?農作物はみなを養うだけ取れ、科学技術も発展した。それでもみんな戦争するし、飢えるし、合理的な判断をしているといえるのだろうか?それとも、なにかそのような原因が存在するのだろうか?私たちには個体的死が存在する。我々には、人類的全滅が存在する。宇宙的には、熱的死が存在する。なぜか時間が経つにつれて、それは劣化する。死神の熱力学第二法則だ。本当の敵は、この「熱力学第二法則」なのだが、これを敵に回してもとりあえず勝てない。我々は死ぬし、人類は全滅するし、宇宙は熱的死を迎えるからだ。

この死神的熱力学第二法則が、無くなったところで、無限のエネルギー、無限の空間、無限の時間が存在しない限り、我々は戦い続け、憎しみあい、飢えたりする。つまり、ずっとだ。リソースが無限にならない限り、この制限による複製制限、存在継続制限は存在し続ける。逆に言えば、この制限が少しでも変わった世界があれば、その世界では今とは違う存在に最適化されることになる。例えばWEB、表向きはWEBのサーバーは見えないし、何がどれであるかというのはわからない。生存は、WEBの変化速度に比べると簡単にできる。ただし、ここでは存在=「生」ではない。生きるためには、関係性を主張して認められないといけないのだ。

WEBではボトルネックは存在はなく、認めることに変わった。検索結果での上位に存在すること、たくさんのサイトから優れたサイトであるという関係性の証明をもらえることが「存在」することの価値となった。WEBサイトの存在価値と人間関係での存在価値が違うというのは、その存在する空間のルールが違うからだ。違うルールとなれば、最適化された存在の形が違うのは当然である。WEBを知らない人が想像ができないのはこの空間の特殊性なのだろう。

新しいルールを作る

力学第二法則が地べたに存在する限り、時間と空間、物質という限られた資源が存在する限り、我々はずっとこのままとなる。外宇宙に行っても、戦争はあるし、飢えもあるし、なんだかやっていることは人類が生まれてからとそう変わらない。ずっと歴史上で繰り返していたことを再度繰り返すだけだ。自由意志は存在しない。成長をやめて死ぬか、成長を続けることで現状を留まるかである。でも、違う世界が存在する。それは、我々が創造した世界だ。自由意志は自分の主観物語世界の中に存在する。

物語世界の中では、エネルギーの法則も、熱力学第二法則も、リソースの限界の問題も存在させないことができる。しかし、そこに待っているのは「全」か「無」か「混沌」か「静止」のどれかになってしまう。我々も「神」という視点を持ってはじめて気がつく。意味や価値を付けることができるのは、この「絶対死」が存在するからだということを。我々は主観物語を手に入れることで「死」をも手に入れた。主観的死というのは、主観世界の作り出した「発明」だったのだ。それは怖い。それは痛い。それは悲しい。それはすべてであり、すべてが終わるときだ。

小説や漫画とかで、人を殺すというのはその価値を示すのにもっとも効果的である。我々は「死ぬ」のだ。それは誰も逃れることなどできないし、それだからこそ、生の価値が存在する。死が怖ければ怖いほど、生は価値を増す。だから、「生命」は、死を恐れ痛く、怖くしている。生命は、本能にそう刻んだ。そして人類は主観を発明し、さらに「主観的死」を手に入れた。だから、次の方向はさらにこれを加速させる方向なのだろうか・・・。あまり楽しくないが、相対的価値を増やすためには仕方ないのだろうか。

生命は生を囁き、一方で死を囁く

「主観的死」というのは、主観が生み出した臨場感を高めるための発明ということがわかった。人間性というのは、非人間性も含めて定義されていることもわかった。さて、これをさらに超えるためにはどちらに跳躍すればいいのだろうか。