人格と非人格の間は、今だ未開拓の領域が広がっている

ほとんどすべてのものが、0か1ではなく、その間の小数点の領域が存在する。それはたとえばみかんの半分だったり、ヒトふさだったりするわけだが。それは今でもあまり切り崩されていない人格にも存在する。人格は、人格を持つものと他に認識されるものに観測され、認められることでその人格権とでも言うべき権利が発生する。

そして、人格を持っていないものは、単なるモノであるというのが、科学と文化がすり合わせた結果となっている。がしかし、その間には現在の認識上の問題のために、今だ未開拓の世界が存在する。

未開拓といっても、それはすでに認識されていて、地続きであることが認識されていないだけであるが。それは、妄想の世界であり、世界を強く観測*1するという物語=人格どもの時間セットのことである。

物理世界は妄想と等価である

物理世界は、妄想と等価だと思っている。小説というのは、たまたまうまくいった妄想を書き出したものである。人生というのは、たまたま遭遇した物理世界を解釈したものである。といっても、わかりにくいとは思うのだけれども。

物理世界は、ある情報空間に、ルールを持った情報*2が時間に沿って動いているだけだ。妄想というのは、精神という情報空間に、私というルールを持った情報が思考時間に沿って動いているだけだ。要するに器が違うだけで行っていることは同じことである。つまらないぐらいに同じだ。だから、一般的に言われているように物理という教科と現代文という教科は、まったく同じことをやっているに過ぎない。

もっともそこまで抽象化してしまえば、すべての教科が同じに見えてしまうだろうが、すべて同じであるから問題ないと思うわけだ。人生とは、物理世界の認識を以ってして私という物語を組み立てている=強い観測を行っているわけだから、まぁなんというかそれがある程度他のヒトと共有できるという程度にしか、妄想との違いは無い。

強い観測と人間というソフトウェア

観測には、受動的にそれを見ることによって、それを認識するという1段階目が存在する。次に、その認識するの前に干渉を行うことで、任意の認識を引き出すという強い観測というものがある*3。それを見ているということと、それに干渉するというのは、それほどの違いがない。姿勢が違うだけだ。

アラン・ケイは「未来を予想するのに最もよい方法は、自分がその未来を作ることである」といった。そう、未来に向けて強い観測を行うことが、最も人間の能力を働かせる方法なのだと思う。ラプラスの悪魔*4に、永遠の近似を行うのが人間であるのならば、それは弱い技術的特異点なのだ。人格というのは、意識というのはそれほどにまでに、宇宙に干渉能力を得たというひとつの記念点なのだ。

次は、強い技術的特異点を人間は発明する。そうすると、干渉能力が際限なく上がることになるわけだ。人間というのは強い精神=意識の発明者であり、次に強い意識=自己開発可能なソフトウェアの発明者となるわけです。そんなわけで、人間の最も強い動きというのは、未来干渉であるのです。

未来を予測し、創造し、実現する

ある物事を達成しようとすれば、それはより強い意識が必要になります。あらゆるリソースに制限がついている物理世界に生きているために、おかげでより強い意識を競争という手段によって、さらにより強い意識を作ろうとしているわけです。その先に特異点が存在するわけですが、今のところ個人ではより強い意識を持ったほうが、その干渉能力によって、未来創造に勝てるわけです。つまり、あらゆる能力に先立って強い意識というのは、物事を達成するために必要な能力なわけです。

というわけで、みんな強い意識でもって、未来を創造すればいいと思うんだ。

*1:強い観測は、創造すること。弱い観測は一般的な観測。

*2:モノも情報の一種だよ

*3:自分定義ね

*4:未来をすべて把握する悪魔。多分超強い