なぜ痛みが伝わらないのか?

いろいろな人に話していて初めて気がついたことを書く。

痛みが伝わらない

私はビジネスで失敗したことがある、といっても一年も経っていないのだけれど。そのときの痛みを他の人に伝えようとすると、笑い話か同情話にしかならない。でも、伝えたいことは全然違うこととで、何人かに話してみたけど伝わらなかった。でも、経営者にのみ理解してもらえた。でも、それは既に知っていたからだった。

私がなぜ、他の人に痛みを伝えたいと思うのか、そして伝われば結構何でも解決すると考えているのかが今ひとつ理解できなかった。痛みを伝えて、まだ全然幸せなんだよとかそういう話でもなく、痛みを知ることでもっと何か今できないことができるはずだと考えていた。でもそれは、誰にも伝わることが無く、どうすればいいのか分かりかねていた。

ほしいものは何か?

あるフラッシュを作るプログラマーと話をしていて、何を作りたいのか?という話になった。そして、彼は今使っているものはフラッシュだけど、別になんでもいいと言った。フラッシュでよく作られる芸術的ななんかアート的なものよりも、使い心地のいいインターフェイスが作りたいんだと彼は言った。だから、最終的には、使い心地がいいことにすら気がつかないで使いこなせるようなものが作りたいと言った。

私も非常に同感だった。私はPHPというプログラム言語を触っていて、いつの間にかフレームワーク*1を作った。それで、何が作りたかったのかというと、書き心地のいいコード体系を作りたかったのだ。コードのさわりごこちのいいものが作りたかった。そして、割と満足がいくものが書けた。いい感触が作りたいという話をしたら、彼もそれだという話になった。

続けて彼に自分の体験したビジネスの話をしてみた。彼はおもしろそうに聞いてくれたものの、最終的には実感が沸かないと言っていた。その物語を構成するパーツが足りないと。

その世界を感じるために必要なもの

我々は、結構同じ世界に生きていると思っているが、実際は脳内で閉じている。脳内のクオリアによって形成された世界の中を生きている。現実だと考えているものは、転べば痛かったり、食べればおいしかったり、触ればあったかかったりするから、一番臨場感を持って感じることができているだけで、私のようにビジネス的に手痛いことがトラウマのように刺さっていれば、現実よりもビジネス世界の方が臨場感が高かったりする。

そうするとこの世界がどう感じるのかというと、自分が遊んでいたいとかよりも、会社のために何かできないだろうかと考えてみたり、会社のことを考えているふりをしているだけの人をみると非常に腹立たしかったりする。何が痛みで、何が喜びかというのが分かるから、その詳しいフォーマットを知らなかったとしても、それを自らで組み立てることができる。会社の気持ちになって感情移入することができる。

痛みが無い世界

痛みが無い世界は、臨場感が薄いために非常に生きている気がしない。ゲーム上で数字だけのことで、リセットすればいいやみたいなことをゲームを知らない人は言うけど、ゲームをしている人は、その世界に臨場感を持っているから、痛い。この言葉は、たとえば恋愛をしているひとに、恋愛をしてない人が冷静なアドバイスをするとか、失恋したときにその人を慰めるとかも、臨場感が違って痛みが違うのだから、それは色々言って貰えるという意味でありがたかったりしても、あまり慰めにならなかったりする。

今の若い世代が、恋愛至上主義に落ち入るのは、現代で痛みを一番感じやすい世界だからではないだろうか?一番臨場感の高い世界が、その人にとっての現実なのだ。私にとっては、プログラムを書くコードに臨場感を感じるし、それを動かすサーバーの保守に対しても、それがどれだけ痛いかを知っているから、臨場感を感じる。ビジネスに対しても、失敗をして本当に痛い目を見たから、強い臨場感を感じるし、恋愛に対してもこっぴどい振られ方をして、こいつはどうしようも無いなと思えるくらい痛かったから、強い臨場感を感じる。

ゲームの中の世界でも、小説の中の世界でも、それに完全に引き込まれたときには、現実より強い臨場感を感じ、物事に感情が揺らされ、喜んだり痛かったりする。主婦が安売りに対して、非常に高い臨場感を持つ一方、そんな数十円なんてどうでもいいから、すぐに欲しいと思ったりする。オンラインゲームの廃人*2は、それが楽しいからではなく、苦痛だと思っていることも多いのだという。でも離れられないのは、それが自分にとって一番臨場感が高く、その世界で一番生き甲斐を感じられるからなのだろう。

世界の感触

私は、抽象化をものすごくすると最終的に感触として感じる。それは共感覚的な感覚で、人の心を柔らかいとか堅いとか、表面が堅いけど中が柔らかいとか、このコードのさわり心地はとか、そのような形で物事を感じる。今は、一般的に物事を抽象化すると、数式とか公理とか言語とかになるという考えが一般的であるけれど、それは色だったり、音だったり、感触だったりに抽象化もできるのだろう。ただし、それは記録しにくいし、他の人に酷く伝えにくい。でもそれを使えば、高い臨場感を再現して、物事を理解することができる。そう考えると、次に私はこの感触を他の人に伝えたいと思うのだ。


それは痛みだったり、喜びだったり、悲しみだったり、心地よさだったり、絶望だったりするわけだが、そうすることで私のみている世界を伝えることができるのだろう。そして、私も他の人が見ている色や音や感触を知りたいと思う。

*1:プログラムを動かす枠組み的なもの

*2:寝る間を惜しんでゲームする人