記憶はあなたを構成する

記憶には種類がある

記憶があるから、私は私であると認識することができる。また、記憶には2つの型があり、ひとつは論理型(構造記憶)、もうひとつは物語型(物語記憶)である。別にこの型は排他的ではなくて、両方を獲得することは可能である。一般的に、男性(男性脳)は論理型優勢になり、女性(女性脳)は物語型優勢となる。もちろん、性別とは逆の人もたまにいたりする。

記憶型の優勢によって、多少なりとも思考は型にはまる。例えば、論理型は、論理を考えるのが得意になり、構造の構築、分析すること、抽象化することが得意となる。それは、記憶の型が同じ形をしているために、吸収しやすいためだ。

一方、物語型の方は、話すこと、対人のコミュニケーション、物語の構築、自意識の構築というものが得意となる。これも、その型そのものが記憶と同じ形をしているからだ。

また、記憶型には、あまり一般的ではない非定型の型も存在して、それらの型が得意なことが飛び抜けてできるようになったりする。

バランスタイプではない場合

私の場合だが、私は思いっきり論理型である。論理的な事を何段にわたって考えるのが得意で好きだ。小さい頃からよく使う言葉として「たくらむ」という言葉があったが、納得だろう。そんなわけで、私は話すことは好きだったが、物語記憶の発達が遅れていたのだろう。物語記憶が発達しない場合、自意識(自我)の発達が遅れる。

何しろ、自我というか自意識というのは、「私という物語」のことなのだから。物語記憶とは、因果関係の記憶のことだ。因果関係とは、「Aが起きた結果Bが起きた」という主観記憶である。これは、感情の量がトリガーになって、結果から原因を主観的に探しそれを、次の時の選択肢として弾く目的で記録するということだ。

その因果の組み合わせ、偏り、強度が、「私という物語」である。つまり、その記憶が少ない場合、自我が薄いという状態となる。私は数年前までそのような状態だった。論理思考はできるが、意志を持って、それを行使することができなかった。言い方を変えるなら、私は世界という傍観者で私を見ていて、自動的に私が動くという世界観だった。

それが壊されたのは、極端な危機で、生きるか死ぬかという状態に陥り、それまでの自分で物事を行使できなくなり、皮肉なことに感情量が、閾値を超えて、私という自意識は生まれた。

そのため、そういうことから想像すると、論理型は逆に基礎スペックが高いほど自意識の発達が遅れることになるのだろう。自意識が完全に覚醒出来ていない場合の私の状態を書いておくと、まず、怒りや悔しさという感情をほとんど覚えない、私の状態は制御できると考えていない、予定や時間系の物事の制御ができないといった状態だった。

主観物語記憶の世界

そう、この記事は、まだこのような状態に入っている人に、抜けて欲しいと思って書いている。技術系の人で、技術の親和性はものすごい高いけど、自意識の覚醒ができてないと思われるような人がおおいと感じる。それは、逆にスペックが優れた人であればあるほどそう感じる。見ていて、非常に勿体無いと思うのは、人間が最高のスペックを発揮するときに必要なのは、論理型、物語型両方の力であるからだ。

それは、見るからに違うほどの成果が違うし、一度できれば、誰でもできると思えるほどのことではある。でも、この壁は非常に堅く一般的にも全く知られてないように見えるために、気がついてない人が大半であるように思える。

私は、主観記憶の中に生きている。つまり、自分ローカル世界にしか生きていない。数年前の大変だったことはラッキーだったと考えている。一方で、これを話すと「大変でしたね」とか「不運でしたね」とかいう人達がいる。彼らは、私がそれと引換に学んだことが見えていないのだ。私はそれによって「私」という主観世界を手にいれたことに気がついていないのだ。彼ら物語型にとっては、それは当然の世界なのだろう。

でも、それは当然ではなくて、自我が眠った状態で生きるなんて恐ろしく、そういう機会が与えられない方が恐怖を感じる。そういうわけで、私は幸運で、幸せなのだ。