昔の自分を説得してみる
若い人と合うとよく思うことがある。それは、もう少しうまくやればればいいなということだ。私が十分に成功しているとは言えないとは思うが、少なくともそこそこ自尊心を保てるほどにはなった。そこで、過去の自分にこうすればよかったのにと思うことが山ほどあるわけだ。
そう思うからこそ、したり顔でそのアドバイスを偉そうに行ってしまったりするのだが、大抵が的を外している。つまり、伝わらないアドバイスにとどまってしまう。それをなぜなのかと考え、でも良く考えてみると、私自身もそうだったことを思い抱いた。
私は無謀で、無茶で、適当だった。高慢で、無能力で、馬鹿でそのことを認識していなかった。過去を振り返ると恥ずかしいことばかりだ。しかしながら、恥ずかしく失敗したからこそ、今の自分があるとも感じている。
自分が残念な事を説得し、そして諦めさせる
というのは、無理だろうと思う。昔の私は、今の私の言葉を強行的に言った場合、聞かないだろう。反発するだろう。
尊敬と信頼を持って、接してかつ、迂回してプライドを保ちつつアドバイスをしてみる
これなら、よほど馬鹿な昔の私でも参考にはするだろう。しかし、よほど馬鹿な私のことだから、私が特別である意識が抜けない可能性は高く、その場合、高確率で失敗する。残念です。
説得は無理だ
説得は無理だ。というのが私の結論だ。今では少しはましになっているが、昔の状態だったら、まず人の話を聞くことが出来ない。その時点で、ほとんど終わっている。説得なんて出来ない。昔の自分の求めるものは、今よりもっと刹那的で、「面白さ」とか「楽しさ」だったりするから。
私は昔の自分に何ができる?
方向を変えることは出来ないし、無理やり変えたとしたらそれは致命的な失敗として、人生を破壊するだろう。あの時こうして入ればということに縛られるほど、意味のないことは無い。だから、彼自身の決断の方向を変えることは出来ない。
私が今やるとしたら、それはなんだろうかと考える。昔の自分の近くにいる人はさぞかし危なっかしい思いをさせていたのだなと思う。申し訳ないですね。
私は何をするだろうか?出来るのは大したことでは無いだろう。立場によっては、色々なことに挑戦をさせてみるかもしれない。そして多くの失敗をさせると思う。別に成功するならそれでもいいし、要するに経験を増やすように仕向けるだろう。チャンスは多くのところに転がっているといい、独自の考えを褒め、もっと伸ばしたほうがいいことを指摘する。
視野を広げて、より多くの人と深く関わり、すべての人にはその話を聞くだけの価値があるということを教えられたらいいなと思う。そうだ、私の周りの人がやってくれたことだ。当時の私にはその意味と、価値がわからないのだろうけど、同じような立場にたったときに必ずそのことをありがたく思えるようになる。
私が、ひとりで生きてきたのではなく、より多くの人に支えられてきたということが、克明に見えてくる。これは、みんなの単純な好意であって、それ以外の何ものでも無いことを悟って、自分が何をしたかを知って、泣くといいさ。
それ程に認識のギャップは大きく、私は幼い。でも、そこは通らないと成長出来ない。全てのことが簡単にこなせるようなタイプでもないし、天才といえるほど頭も良くない。だから、その経験は必要なのだ。