世界が好きであること=自分が好きであること

最初に断っておきますが、特定の誰かに宛てて書いたものではないです。念のため。
あと、まぁレベルつけておきますが、どっちが上とかではないので。生きやすさレベルですね。

Lv.0自分が好きで、世界が嫌い

これはナルシストだ。そして本質的に、自分が嫌いであることを隠すために、好きであるかのように振舞っている。優越感と劣等感と同じ仕組みだ。これはある意味、自分が嫌いで、世界が嫌いという人よりも根が深い。まぁ、自分がそうだったからわかるんですけど。世界を歪めて、見ている状態だ。下手をすれば現実が見えなくなってしまう。ある意味、幸せな状態といえばその通りではあるが。世の中との摩擦は絶えないだろう。

Lv.1自分が嫌い、世界が嫌い

自分が嫌いだという人がいる。自分が嫌いという人は、押し並べてその接する世界が嫌いだ。それはそうだろう。何しろ、自分が生きるには生きにくい世界だからこそ、そんな自分が嫌いになるだろうから。自分が嫌いということと、世界が嫌いということは同じことなのだろう。どちらも生きにくい。しかし、現実が見えているだけ、ナルシストの自分好きよりはましといえるかもしれない。しかし、生きにくい。

Lv.2自分のある部分が好きで、ある部分が嫌い

自分のある部分が好きで、ある部分が嫌いという人もいる。これは、根本的には自分を全肯定できていない状態だ。同じように世界ものある部分が好きで、ある部分が嫌いという状態になっているのだろう。ほとんどの人はこのような状態であると思う。

Lv.3自分が好きで、世界が好きだ

好きというと誤解されやすいが、ナルシストとは違う。自分を全肯定できるかと置き換えてもらっても構わない。そして、世界を全肯定できるかということだ。肯定できなくても認めるということだ。ここまでくれば、生きるのが楽しくなるし、うまくいくようになる。世界を好きであれば、世界の側もこっちを認めて、肯定してくれるだろう。

自分は世界を認めないが、自分だけは認めてほしいというのは、自分勝手な願いだろう。こちらが、認めなければ、相手は認めてくれない。人間だろうと、世界が相手だろうと、そして自分が相手だろうと同じことだ。こちらから、認めて受け入れることをすれば、ほとんどの問題はなくなってしまうのではないだろうか。よくやってしまいがちなのは、相手が認めたら、自分も認めるという態度だ。これを両側でやってしまうと、話が前に進まなくなってしまう。

自己と世界の境界のかたち

これはほとんどが、親から受け継ぐものであると思われる。そして、その後の経験によって多少変化するが、好転させるには相当いい人との出会いがあるか、自分で努力する以外はないものだと思う。自分で努力するとは、心の深淵を覗いてみることになる。これは実に恐ろしい行程だ。実は、この「自己と世界の境界」が「親から貰うものの最も影響の大きいもの」なのではないかと思う今日この頃だ。