創造力とコミュニケーション力とは同じもの

はじめに

分裂勘違い君劇場でこのようなエントリーがある。
コミュニケーション能力をウリにする人が醜悪な理由
このエントリーは非常にうまく煽ってあり、それでいて本質を知っているからこそ、わざと正しさに欠ける書き方をしている。
まぁ、そのこと自体はあとのエントリーで、そう言っているのだからそうなのだろう。

まぁ、その表現とか、中身とかが非常に面白い。正しさよりも、おもしろさをとっている。そのやり方は、より情報として伝わりやすい形態を使ったというだけだ。

そして、そのエントリーは平たく言えば「価値の創造はよいけど、価値の創造無きコミュニケーションは醜悪だ」ということだと思う。そして、安易な反論*1としては、「コミュニケーション自体も価値の創造だよー、分裂勘違い君は勘違いしてるよー」っていうのが作れる。

まぁ、それでは今更書く意味なんてないし、書きたいことはちょっと違う。

創造力とコミュニケーション力って同じもの

先のエントリーでは別の能力として扱われている。そして一般的にも別物扱いである。さらに言えば、どっちかが得意で、どっちかが苦手だというのが割と標準であるような気がする。それは両方凄くできるような人がめったにいないからだ。そのような人は絶対数自体が少ないだろうし、そのような人は社会の上部に行ってしまうのだろう。

創造力とは

創造とは「頭の中の情報同士の帯域を大きくした結果、新しい組合わせができ、それが材料のものよりも優れていること」である。これは、頭の中で組合わせ、自然淘汰を行ってよいものをふるいに落とすという行為なわけだ。ただし、無意識に行うことも多く、すべてが意識できるわけではないが。

そして、創造力があるとは、そのような行為を意図的に行うことに慣れており、物事がすでに普通の人間よりも数段深く物事に対して考えていて、普通の人がブラックボックスとしているものを開けることができる。そして、それを普段からインデックスとして頭の中に蓄えてある。

だからこそ、中身を分解してより良いものを根源的な視点から、構築できる。そして、それを何やってるのかわからない人が「創造」というブラックボックスに突っ込んで話すのだ。創造力なんて使うほとんどの人が、創造できないというのは悲しい。というか、本当のレベルで創造できるまで考え抜いている人自体がかなり少ないと思う。

コミュニケーション力とは

同じようにコミュニケーション力とは「人間社会の人間同士の帯域を大きくした結果、新しい組合わせができ、それが前の関係よりも価値のある関係を築く能力」である。ちょっと上の創造力と比べてほしい。なんというか、実行するレイヤーが違うが、やっていることは同じだ。

やっていることが同じだということに気が付いてしまえば、どちらかができて理論的に理解すれば、どちらもできるはずである。

すべての力の統一原理

さてと、次に進もう。すべての「力」とは作用物と被作用物が存在して、それが影響を与え合うというのが「力」だ。そういう意味で、力とは「関係する強さ」と言い換えることができる。そういう意味では物理学的な力でも、心理的な力でも、何でもかんでも同じものだといえることがわかる。

そうすると、すべての事象は力によって構造化された、ネットワークである。そして、それはある程度のオブジェクト(個)の存在するレイヤーによって仕切られていることがわかる。しかし、メタ的な視点でみると、レイヤーそれ自体も一つのオブジェクトであって、それも関係という力によって、構造化している。

インターネットでのインターネット総体の構造化も今では進んでおり、それをweb2.0と呼ぶ人もいる。ロングテールが存在するのは、例外的な特殊な原理ではなく、むしろ構造化によってインターネットの構造そのものに価値が創造されたものだろう。

自己構造化と生命力

ネットワークはある程度の帯域を持つようになると、今のインターネットのように、生命の様に自己組織化し出す。それは、「様に」と呼べるものではなく、まったく同じものである。

創造力も、コミュニケーション力も自己組織力という一つの同じ力として考えることができる。そして、それは「自立」と呼ばれるものであり、個の総体として新しい個を得るという価値の創造につながるのに対し、依存とは逆に個が自己を喪失していくということであり、価値の喪失につながるものだ。

*1:本人が後で言っていた