刺激と反応の境界

私たちには選択の自由がある

先日のエントリーにコメントをしてくれた人がいた。まぁ、返事はそこに書いておいたが、何か前提条件が違うと感じたので、自分の「刺激と反応の境界」について、書いてみようと思う。

私たちは何か刺激があると、それについて反応を選ぶ自由が存在する。

馬鹿にされたからと言って、すべての人が怒って、馬鹿に仕返すわけではない。
殴られたからといって、すべての人が殴り返すわけではない。
勉強がつまらないからといって、すべての人が勉強しないわけではない。

わかっていただけるだろうか?同じ刺激が来たからといって、反応は人それぞれである。

刺激と反応のくっついた人たち

刺激と反応が直結している人たちがいる。そのような人たちは、その原因を外側に持っていく。
「あなたが〜をしたから、私は〜をする」という論理である。
これは例を挙げると、「親が勉強しろと言ったから勉強したくなくなった」とか「あいつがムカつかせたから殴ってやった」とか「あいつらが悪いから、私たちは復讐をする」などだ。

総じて言える事は、子供というか、無責任だということだ。そして、反応的であるともいえる。
他人に刺激の責任を押し付けることで、自分が無罪になると考えているのだろうか。昔は環境論の人がそのようなことを言っていたのを思い出す。すべての刺激が環境から与えられて、機械的に人は成長し、機械的に環境に従った人になるといった形だ。遺伝論とか教育論者の人にはこういうことに近いことを言う人が多い。

人間の人間たる理由

でも、私たちは機械じゃない。人間だ。それだけでは、計ることのできない要素が存在する。
それが心であり、刺激と反応の隙間だ。

何かが起きたときに、すぐに起こす反応には必ず選択肢があるということだ。その選択肢を選ぶ時間が、刺激と反応の隙間だ。忍耐強い人ほど、コンプレックスの無い人ほど、その隙間の幅が大きい。だから、余裕を持って反応を選ぶことができる。このような人たちは主体的な人と言うことができる。

しかし、忍耐することをしない人、コンプレックスに絡みとられている人は、刺激から反応を選ぶ余裕が、存在しない。それの最も大きなものがトラウマであり、まったくその湧き上がる感情を制御できなくなってしまっている。

トラウマになってしまうと、解除するのがかなりの困難すると思われるが、それ以外のレベルではすべて自分でどうにかできる範囲である。ただ、コンプレックスを解除しようと思うか、コンプレックスのせいにして人生を棒に振るかも自由だ。

刺激と反応の隙間の伸ばし方

反応的な人々は、環境のせいにする。
そして、反応的な人々が口にするのが「〜しなければならない」である。

対して、主体的な人たちは、自分を環境に合わせて、自分を成長させ、環境すら変えてしまう。
そして、主体的な人々が口にするのは「〜したい」「〜したくない」である。

実際に、頭の中の言葉を言い換えてみれば、その効果が実感できるだろうと思う。「〜しなければならない」は言えば言うほど、圧迫感を感じ、胃が痛くなる。

「〜したい」「〜したくない」は、自分で行動の主導権を握っているのが実感できると思う。
だから、先日のエントリーは「〜しなければならない」を言うのはやめたほうが楽だよという意味だった。

ただ、そのことを全面に出してなかったし、強調が違う部分に入っていすぎたので、あまり納得もしなかっただろうと思う。そのことも、最近自分が、あまり調子がよくなく、反応的な言葉を多く使うようになってきていたので、半ば自分に向かって書いたエントリーである。そしたら、ああなった。

元ネタ

実はこの刺激と反応の隙間の話には元ネタが存在する。スティーブン・R.コヴィーの「七つの習慣」だ。
自分は、ちょっとした折に読むようにしている。この「反応と刺激の隙間」も最初の方に書いてある。自分の考えの3割ほどはこの「7つの習慣」に影響されているといっても過言ではない。非常に刺激的で、向上心のある方にはぴったりだと思う。興味のある方はぜひ読んでみてほしい。損は無いはずだ。

7つの習慣-成功には原則があった!