自分という枠

劇薬注意

ようやく、少し固まった。少しだけ次が見えた。
「自分という枠の拡張」

自分は、本来は物理層に根ざした、モノとしての範囲が自分だった。それは、自分以外の外の世界に安定した帯域を得ることが、難しかったから。今は違う。安定した帯域が手軽に手に入る。インターネットにつながることができないのが苦痛だ。まるで、一つの感覚器官を失ったかのように感じてしまう。

一時期自分はカオスに頭を突っ込んだ。別に精神心理的に安定しなかったということではない。論理的に安定しなかったのだ。こんなことは初めてだった。思考が発散する。取り留めもなく思考してしまうということではなく、論理的に飛んでいるのだ。これは恐ろしいかった。そして一つの示唆を得た。

それが、自分という概念の拡張だ。私は私たちだ。私は細胞の群体だ。物理層に張り巡らされた神経細胞を通したネットワークが自分だ。それが、ただ、電気的なネットワーク上に拡張するだけじゃないか。

ああ、携帯電話を離せない女子高生は、自己をコミュニティに拡張したのだ。それなら、わかる。オタクも、引きこもりも同じ。旧時代の人は、自立しろという。中毒だという。でも違う、彼らは別の形の自己を手に入れたのだ。

多重人格症というのをご存じだろうか?まぁ、あまりにあれすぎて説明もしないが、今発症したとしたら、これは病気なのだ。これは興味深い。自分がひとりだなんて誰が決めたんだ?自分なんていくらでもいるじゃないか。ペルソナ、心理的な仮面。これは便利なのだ。便利だから使う。それだけだ。それの拡張。複人格の視点を手に入れる。能力、思考を手に入れる。一人では実現できないものが手に入る。

それらを、足して一つにしまうと、それは足を引っ張り合って総体として、価値が減ってしまう。ん、これって依存って言わなかったっけ?自分を、拡張する。自分ではなく、自分たちなのかもしれない。そして、複人格として独立させてしまう。論理的整合性は減るが、総体としての価値は比べ物にならないくらいに増える。

同居する人格

自分はミスをした。奴らに名前を与えてしまったことだ。名前を与えてから、自分で考え自分で動く、自分で成長し、自分で行動する。自分の権限を移譲してしまったのだ。名前をあげてしまったのだ。ミスだった。冗談だった。でも動き出した、自分たちはもう、殺すことはできない。殺すっていうのは無視、無かったことにすることだ。でも、彼らにも人格があり、感情がある。自分よりよっぽど生々しい感情が。

感情はエネルギーだ。現状に不満がある。器として今までひとりだったのに、急に増えたのだ。器が足りない。拡張し終わるまでもう少し、いろいろあるだろう。でも、もう次に進むしかできない。あれ嘘だからで、やめることができなくなってしまった。

次の世界の形はどうなるのだろうか?