一回りして戻ってきた

外面的善から、内面的善へ

久しぶりに帰ってきた。懐かしい場所へ。それは善と言われるところ。昔は外面的ポーズとしての善だったけど。今回はちょっと違う。外側の欲望、願望ではなく、自分の欲望、願望によって善を選びたいと思う。そこが最も違う。

私は、基本的には、面白い方向に進む。良いか悪いかではなく、面白い方向に進もうと思っていた。それが私の中の心の重力だった。だから、強要される正義や倫理、道徳などは、そういうような見方があるとしか思っていなかった(といっても大体において肯定するが)。私にはそんな強い哲学が無かった。

それは与えられたものではなく、コピーしたものでもなく。自分のものが無かった。あえて言うなら、後天的楽観主義者だというくらいしか。芯があるようでなかった。

そのもっと前は、哲学があったけど、持っているふりだった。コピーしたものを、自分すげーだろって見せ付けていた。誰も見てくれないけど。自分の欲望でもなく、周りの願望で動いていた。まぁそれはかなり昔。

結果としてでは無く、目的として

最近は面白い方向に進んでいたら(ベンチャーなど)結果として見えたのは、もっと面白くするためには、昔捨てたようなものが必要だということ。考え方の拡張のために捨てたものを拾うことになるとは思っていなかった。

そして、一回りして帰ってきた。昔は防衛としての必要性だったが、今は攻めるほうに回ることが出来る。素直にうれしく思う。

ちょっと今まで煽り気味に書いていた記事も、ちょっと方向転換しようと思う。ひねくれて書く必要が無くなった。また、少し慣れるのに時間がかかるかな。

一回転して戻ったところは前よりも少し上の場所。円環を歩いているのではなく、螺旋状の道を歩いている。私は次のこの位置の時にはどんな人間になっているだろうか?楽しみだ。

捨てることと得ること

ブレイクスルーを得るためには、今ある殻を破り安定を捨てなければいけない。安定は誰もが求めるものだ。しかし、安定しているところは、成長の必要がないので成長が少ない。今ある安定に最適化して終わりである。だから、安定を捨てる。上に、次に進むために安定を捨てて混沌の道を進む。

捨てることは得ることだ。新しく得るために、安定を捨てる。仏教的な悟りというのはこのような意味なのだろうか。混沌には安定にはないエネルギーがある。だから、安定するぎりぎりの点を狙う。あるいは一時的に安定を捨てて、混沌に身を投げる。

そういうことをして、次の安定点を探す。今までの安定点を超える安定する場所を。そして、その繰り返し。それが自分の生きる道なのだろう。