所有すること

モノを持っていますか

モノを持つというのはどういうことだろうか?単純に言えば、モノを所有していること。それはそうなのだが、ゲームの時の話で違和感を感じたので書こうと思う。

例えば、空気、水。あなたは持っているだろうか?持つ必要があるだろうか。豊富にありすぎると所有権を誰も主張しなくなる。

例えば、ゲームの中の武器。ゲームをしていれば手に入るもの。あなたは所有していますか?それを持っていると感じていますか?

例えば情報、あなたは情報を所有していますか?それを持っていると感じていますか?

モノを持つとは、「手に入れる時」と「手に入れた状態」と「失う時」の落差

モノを持つとは「手に入れる時」と「手に入れた状態」の落差、要するに手に入れやすさだ。というのが一般的な考え方だと思う。でも、実際は違うと思う。「失う時」の落差まで、勘定しないと所有しているとは、言えないのではないか。

例えば、今100万円持っているとする。余剰金としての100万円、つまり失っていいものであるなら、持っていると感じる。だが、1週間後に100万円返す必要があるならば、それは失ってはいけないものであり、持っているとは感じないものだ。

物は壊れる。情報は忘れる。命は失う。お金は使う。だからこそ、持っていると感じる。

特に命に関して言えば、所有しているという価値観が薄れたのは、持っていることが当たり前になったから。見せ掛けのいつまでも生きられるという勘違いのためと考えられる。

失ったことが無い=持っていない

水が無くなった事が無い人は、水の大切さが分からない。理解できても、実感が出来ない。今の子供は失った時のことを知らない。家族を失ったり、食べ物を失ったり、家を失ったり、日常を失ったりしたことが無い。持っていない状態を味わったことの無い人は、持っている実感が無い。つまり、持っていないのと同じだ。日本はモノを豊富になった。しかし、「失う機会」を失った。

持っていると実感の無い人はそれを使って何かをしようと思わない。それを消耗してまで、何かをしようと思わない。だから、命を失う覚悟をした人は強い。だから、失う経験、失敗する経験をした人は強い。失うことを経験しなければ所有することが出来ないのと同じように、失敗を経験しなければ、成功は所有できない。

だから、持っていない人は強い。生まれつき持っている人、失ったことの無い人は弱い。だから、二世は弱い。何でも二番目は、生まれたときから豊富に持っている。持っているから、失ったことが無い。だから、弱い。

いくらでもコピー可能な情報

情報に関しては、少し毛色が違う。いくらでもコピーが可能なのだ。物とかお金とかと違い、ほとんどコストが無くコピーすることができる。そして、その環境はどんどん向上し、世界の誰に対してもコピーすることが可能になっている。

そうなるとどうなるのか?それは空気と水と同じように、価値を失ってしまう。そして価値が高いのは、誰でも解る訳ではない専門的な技術や、コピー不可能な人格、創造するという能力そのものに価値がつくようになる。

そのほかには、わざと制限を掛けた情報、つまりコピー不可能にした情報もまた、価値を持つ。例えば、紹介しないと入れないSNSのアカウントや、ゲームでの獲得が非常に困難なアイテムなどだ。また、お金と交換できるような情報、つまりソフトウェアや設けるための情報なども非常に価値を持つ。

「所有する」という形の変化

「所有する」が情報化社会になるにつれ変わっている。今までは単純に、資本を、人を持っているものが勝利を収めるようなゲームだった。もちろんそれにも抜け穴があって、ニッチである場所は、大資本を投入する意味が無いから、その他が取り合っていた。

今はゲームが変わってしまった。必要なのは大資本でも、大人数の営業力でもない。逆に今まで資本としてカウントされていた、建物、工場、過去の資産などが下手をすればマイナスに計上される時代になった。必要なのは金でも人でもなく、情報と早さ。そのためには、少人数のほうがむしろ実現しやすい。ゲームのルールが変わった。

今まで培ってきた、企業文化は、大人数であればあるほど、変えることが難しい。変えることを想定されていない大企業は、時代に取り残されていくばかりだ。そして、情報社会であるから、資産の形態が変化している。今までは、お金と物だった。これからは、情報(トラフィックや技術力、想像力)と舵取りのコストの小ささだ。

言うならば、単細胞生物がめいいっぱい大きくしたのが、典型的な大企業で、これからは多細胞生物の時代だということ。恐竜は、環境の変化についていけず、滅びた。これからは環境の変化に対応できる小ささが逆に資源になる。イノベーションのジレンマというやつだ。創造は連続的ではない。むしろ破壊的だ。それを忘れて、今までの路線をはしり続けることは、いつの間にか自身を崖っぷちに追いやることになる。

そう、イノベーションのジレンマにかかる人は、革新から保守に移っていってしまった人たちだ。映画を作る人が、テレビを罵ったように。ラジオを作る人がテレビを罵ったように。テレビを作る人がインターネットを罵ったように。時代は繰り返す。

なぜイノベーションのジレンマにかかるのか?それは、真の目的を忘れ、手段を目的としてしまうから。素晴らしい企業はその、モノ、形態ではなく、精神性にその会社であることが刻まれる。真の目的を忘れず、製造設計者にとっては、破壊的なラインを進む。

質点と力点の変化

思考するというのが、所有ゲームの参加条件とするならば、集合知もまた所有することが出来るのではないだろうか?インターネットにより、ようやく集合知というものがうまく機能するようになった。今までは、経済分野や、文化的な方向くらいしか決めることが出来なかったが、今では成長し、自分で思考を始めている。

今まではマスコミが色々なガイドを敷いて行き、権力組織よりある意味権力を持っていたが、ようやく民の機能が動くようになった。これでようやく、権力、マスメディア、民と三つの三すくみが出来上がった。三権分立。これでようやく、意図的に操れるものは無くなり、集合知が働くようになる。おそらくこれが民主主義の正しい形態なのだろう。

問題は、集合知が所有すると言う話だ。思考をし、選択し、所有をするようになるという話だ。そうなると一体どうなるのだろうか。

日本

これも同じように、理念を共有すれば、物事を成す事が出来るが、理念を持たず、又はばらばらの理念で活動すればうまくいかない。日本は昔は、「豊かになる」という共有理念を持っていた。豊かになった今、理念を失った。だから、みんな足を引っ張り合う。

物質的に豊かになったとしても、精神的な豊かさを目指していなかった。いや、失うことが怖かったのかも知れない。物は豊富だ。それは「失う機会」を失うくらいに。でも、心は貧しい。共有する理念が無くなった。いや、故意に破壊された。まぁ、そこは別にいい。

みんなが、他のもののせいにする。政府が悪い。企業が悪い。近所が悪い。先生が悪い。学校が悪い。社会が悪い。マスコミが悪い。何がまずかったんだろうか?借金はかなりの額になってしまった。それでも、みんな自分のことしか見ていない。公共事業を地元に。天下りで退職金。私は正しい、被害者だという妄想。

誰も夢を共有できなくなってしまった。多様化した社会、ニーズ。全体主義は、まったく間違っているが。目指す方向すら、定まっていない。右に倣えが一周してしまった。起こるのは唯の連鎖。欲望は悪いものじゃない。ただ、そこに自分しかいない欲望は醜い。自分以外のみんなは、競争相手ではない。自分を飾るための存在でもない。自分と同じ存在。泣いて笑って悲しんで、ただ認めて欲しがっている。欲望は必要だ。「〜をしたい」という気持ち、誰にだってあるはずだ。例え否定したとしても。

どんな国になりたい?

何を望むだろうか?国は何を見て、何を考えて、どう選択するだろうか。矛盾を抱えて、苦しむだろうか?借金は多く、考えの統一、行く道さえ決まっていない。前に進んでるのか、後ろに戻っているのか分からない。誰も操ることはできないし、国が死ねば、中の細胞は死んだも同じ。

国だって死ぬ。日本は死にかけた経験を、忘れてしまった。何のためにあんなことになったのか忘れてしまった。何の理念があったのか忘れてしまった。「失った経験」を失ってしまった。

モノを持つ喜びを忘れ、理念を忘れ、成長力は衰え、まだ、どこに進むのかさえ決めていない。

うっかりすると、借金があることを忘れてしまう。借金は返さなければいけない。それすら忘れてしまう。

自分が使ったわけじゃないけど、確実に恩赦には預かっている。借金は返そう。行く先をまず決めよう。簡単な話だ。みんなで幸せになればいい。唯の理想論。でも、みんなで幸せになればいいって思う。みんなで、成長して、子供をやめて、大人になって、働きたいと思う。みんな好きなことをして、一生を過ごせればいいって思う。傷を癒して、前に歩ければいいなって思う。