性善説と性悪説

性善説性悪説どちらがよいのだろうか

web2.0はというか、web自体は性善説で動いている。ただ、それだけでは脆弱であるのでセキュリティに関しては色々対策をしている。でも、それでも性善説がベースとなっている。フリーにサーバを繋ぎ、誰でもどこのサイトの情報を得ることが出来る。これは性善説だからこそ、出来ることだ。

一方、インターネットには危険性がある。そんなこというまでも無さ過ぎるのだけれど、ウィルスやブログの炎上、個人情報の漏洩、著作権の侵害などがある。それでも、ある程度は対策で防げることであるし、それにデメリットよりもメリットの方が遥かに大きい。だからこそ、ネットワーク化が進み、帯域は増え、ネットワーク自体が成長していく。今の問題点は、インターネットのネットワークを拡張していく段階で、免疫系が不十分であるために起こっている問題なのだろう。

将来的には何らかの形で解消するのかも知れない。それが意識の問題なのか、技術の問題であるかは分からないが。

性善説は、とりあえず他のノードと接続をしてみるということだ。性悪説は、とりあえず他ノードとは繋がないで、信頼の置けるノードにだけ帯域を開くというやり方だ。性善説の世界では、win-winを持ちかけるのに対し、性悪説はlose-winを心配し、win-loseを望む。

性善説の中の世界に少数の性悪説の人がいるというモデルを考えてみよう。裏切りや騙すということが効力を発揮するだろう。しかし、性善説の人はノードを繋ぐ。情報を共有するので、次第に騙される人が少なくなるだろう。そして、最終的にはあいつは騙すという情報が共有され、結果誰も相手にされなくなる。

そのため、悪の側は次々と別の手を考えて、騙そうとするが、インターネットの存在前の世界ではノードのつながりが浅いから、それでも騙し続けることが出来ただろう。しかし、これからは難しくなっていく。これが免疫システムとなるのだと思う。

「ノードの繋がり=力」

新しい世界の力は簡単。つながれば繋がるほど、強い。これからは、単体の力ではなく関係力が無数に働く世界になる。そして、関係力の無い、単体の力(個人的な能力)は、存在しないものと同じになる。今でも、そうなのだが、ますます顕著になるだろう。

「好き」「嫌い」というのは、単純にノードの接続の判断である。嫌われた店では買い物はしない。好きな人がどれだけいるだろうか?嫌いな人がどれだけいるだろうか?不特定多数の知らない人に対してどう思うだろうか?それが何よりあなたの存在を克明に語る。

私はあなたが好きだ、故に我あり。

なんだか下手な少女マンガみたいになったけど、ノードが繋がって始めて、他の人の世界から認識、観測される。だから、この接続コストの低い世界では、無関心が一番の敵だ。嫌悪感であっても、ある意味無関心よりはマシだ。何しろ、存在しないんだから。

嫌いなものが多ければ多いほど、世界とのノードの接続は少なくなる。それはつまり、世界が狭くなるということだ。嫌いなものは少なければ少ないほどいい。「あいつが嫌いだ」なんて自慢にもならない。嫌いの多くは自分の内部のノードとリンクしている。なぜ、なんとなく嫌いなのか?それは多くの場合、自己投影の結果であることが多い。自分が強く憎むことがあれば、そのことはあなたを掴んで離さない。

憎むのは一番簡単だ。そして、疲れる生き方だ。信じて好きになるのは、一番難しい。でも、楽な生き方だ。自分は後者を選びたい。