姿格好と自分というモノ

それは、普通の人間でも成り立つ物語か

「かっこいい」とか、「かわいい」とかの力を物語で使うのは卑怯だと思う。その物語は、普通の容姿の人間でもこなす事が出来るのか?と問うとほとんどの恋愛モノは成り立たなくなる。この「かわいさ」とか「かっこよさ」というのが具体例の有る、中身が詰まっていればまだ納得が行く。でも、最近は本当に属性だけで、設定されてしまっているようなものを良く見る。(よく考えると恋愛ものなんて見て無いじゃんというのは置いておいて)

物語の流れで、好きになる設定だから、一目ぼれするとか、魅力は良くわからないけど、とりあえず好きとか。まぁ、設定としての「好き」だ。表面上が魅力的だというのは非常に簡単な設定だから、みんな良く使う。理由も、意味も要らない。魅力的だから魅力的。設定に意味は無い。

中身の同じ精神体が違う外見を着ていたら

中身の同じ精神体が違う外見を着ていたら、おそらくそれは別人になるのだろう。周りから受けるフィードバックが違うから。そういう意味で社会的外見は、精神的内面&精神的外面にかなり影響は強いと思われる。女性が女性らしく居られるのは、女性の外見を持っているからではないのだろうか。そういう意味で、外見的基盤というものは、他人にとって視覚的インターフェイスとなるのでかなり重要だ。

そういう意味で、魅力的だから魅力的という設定を使うのは卑怯だと思う。何の価値の創造も無く、ただそれだから、それというトートロジー。物語にすらならない。内面的な価値を創造できないものだろうか。確かにかなり難しいものでは有るだろうが。

同様に良く思うのが、年齢。若いからって、年をとったからって価値が上がるわけでも下がるわけでもない。多少外見は衰えるかもしれないが。
年をとるのが嫌だという女性がよくいる。それを聞くと、失う以外に得るものは無いのだろうかと考えてしまう。

汎用人格が殻を被ったら

将来人工知能が完成して、人格を認められるようになったときに、体を与えるか、与えないのかというのは大きな問題なのではないだろうか。まぁ、ネットに全部繋がって、ハッキングして外を見るみたいになったら別なのだろうが。なるほど、だったら今の人間と違うような外見を与えればいい。人間に近づけたいなら、近づければいいし、遠ざければ遠ざかるのだろう。ニンゲンとは違うものを作りたかったら、別の体を与える事だ。例えば、インターネットとか。

すべては記号で出来ていて、記号でしか私たちは認知が出来ない。だから、記号を使うというのは簡単では有るが、前提条件が大きすぎるので足元がすくわれそうな気がする。なぜその記号はその意味を持っているのか、それを自分で考えて自分で決めることが大切だ。