想像力と創造力

生きている世界が違うという事

人と話をしていると、思う事が有る。それは、人によってぜんぜん違う世界を生きているという事だ。そのほかの人から見た世界というものは、自分から見たものと全然形が違う。根本の法則すら違う。有る程度深く話し込めば、相手の欲しいもの、手に入れたいものが分かる。それが、手に入るか?自分で意識をしているか?というのは別にして。

特に思うのは、未知にぶつかったときの反応だ。未知は、知っているという事の隙間に、無理数のように挟まって隠れている。知っている範囲が増えれば増えるほど、近接する未知が増える。その未知に対する対応は人によって全然違う。

心理的な基盤が出来ていれば、それは楽しいものとなりうるし、基盤が未発達であれば、それは恐ろしくけして触れてはいけないものになる。未知を恐れるのは、自分の拡張性を信じないからであり、すでに確固としたものが無いのならば、先行きは細くなるばかりだ。

未知への反応

よく見る反応は、

1.興味が無い(実際に無いのだろう)、
2.そんな事に意味が有るの?(まぁ貴方には無いのだろう)、
3.出来るわけないじゃん(まぁそう言えば何も出来ないだろうなぁ)、
4.そんな事するなんてバカだなぁ(はぁ、そうですか)

くらいだろうか。分かりやすい未知への拒絶反応だ。まぁ、全方向に興味を開くというのは、確かにあまり効率がよくないだろう。ただ、興味が閉じすぎて、想像力の足りないというのも、どうかと思うのだ。想像力は、創造力の下地となるものだ。あらゆるものが、思考の中の想像空間で1次的に作られる。人間の想像の中で作れないものは無いし、また想像を介せず作れるものも無い。

私が、非常に優れた人と話をすると思うのは、思考が自由だということだ。あらゆる、思考の飛躍(論理じゃないよ)にも、思考の拡張にもついてきて、価値有るものを作る。そして、未知を恐れない。彼らは自信を持って、物事を進め、また解決し、そして未来を作る。どんなとっぴな思考も否定せずに、可能性を考える。そして、常に自己の中を構造化&カオス化しており、一件気がつかないような気付き得ることが出来る。彼らの中には、もうひとつの世界がある。

思考の生存競争

彼らの思考の下、無意識では常に思考の生存競争が行われている。新しい組み合わせを、作っては戦わせ、作っては戦わせる。何千世代を超えたころ、その中の思考は並みの人間の思考を寄せ付けないぐらいに洗練されている。思考には、前提となるための枠が有る。それが、その想像空間であり、想像の限界である。優れたアイディアというものは、すでにその手持ちの想像空間と構造化された思考群によってすでに決まっている。彼らの思考群はすでに、並みの思考と比べると実弾であり、その破壊力は現実にまで貫通する。

そんなときに、想像空間の狭いものは、それを「思いついた」というのだが、背後の数千、数万回行われた、思考の生存競争に思考が届くものは無い。思いつくというのは、すでに中に存在しているという事であり、後は鍵を開けて生まれるのを待つばかりなのだ。全てのことには原因があり、ただそれが背後に見えにくいために、それに気がつきにくいというだけだ。

そんな事を、グレッグイーガンの「一人っ子」を読んで思った。
グレッグイーガンは、本当に頭がいいと思う。

ひとりっ子 (ハヤカワ文庫SF)

ひとりっ子 (ハヤカワ文庫SF)

読んだ事が無い人は是非一読をお勧めする。いや、本当にすごいんだって!!常識という前提がガリガリ切り崩されていくのが、よく分かる。他のSFで落ちレベルのギミック、視点を、ガンガン組み合わせてくる。本当に敵わないと思わせてくれる。