学ぶ人と学ばない人の4つの違い

こんなことを言うと自分が出来るようですが、客観的にみて極めて優れているわけでは無いです。また特定の個人を指したものでもないのでご注意を。

私と、周りにいるほかの人の違いを考えていたのだけど、ようやく思い至るところがあったので書きたいと思う。なぜ、私がバイトから始まってベンチャーをはじめようと思ったのか。また、同じ環境にいる人でそのように行動をする人がいないということについて。また、私ほど、私の周りに頑張る人も意欲の有る人も、学習する人もいないということについて。もっと大きな周りには自分以上の人なんてうじゃうじゃいるのは知っている*1。でも、能力もそれほど変わらず、機会も変わらないのに、なぜこれだけ結果が変わってしまうのかということについて。

危機感と現状把握

まず、現実の認識からの危機感の違い。私には非常に危機感があった。それは、今の自分はそれほどでもないが、2年間浪人した事によるハンデとコミュニケーション能力によるハンデだ。私は、内輪コミュニケーションならば、それほど問題ないが外向コミュニケーション、さらに正式な場所でのコミュニケーションとなると甚だしく能力に欠けていた。そしてそれは有る程度自覚していた。まぁその自覚さえも今となっては甘々な評価でしかなかったのだが、自覚は持っていた。そして自分の利点も把握していた。

私の武器は、「思考能力」だと。今から考えると、う〜んと思わざるを得ないのだが、その時点では間違いではなかった。私は上記の理由によって、就職活動において苦労する事は明らかだと考えていた。まぁ、実際その当時のまま就職活動を行えば、かなり華々しくない成果が得られただろうと考えられる。私は、楽観的に物事を見るが、その裏では楽観視を取り除いた思考プロセスも走らせている。悲観的なプロセスは、価値を生まないという意味で意味が無いので、あまり好まない。どんな行動でも、失敗しようとすれば、それは実現可能だからだ。

プライマリー原則

だから、考えられる限りの現実から導いた楽観的な思考を好む。つまり、私が割り込める現実の中で最良のものを選ぼうということだ。私の根幹のプロセスとして、「自分は価値を増やす方向に進む」というものが有る。これは自分の中ではかなり大きく根を張っている。つまり、2択の選択肢があったとして、私が選ぶのは価値が増える方向なのだ。それが、私の中の第一法則で、自分の過ちを認めるとか、自分の欠点を知るとか、「実は自分は〜だったんだよ!!!」「な、なんだってー!」みたいな事にも、その先が見えるので受け入れる事が割りと容易だ。

だが、他の人にはこのようなことを見つける事が少ない。自分の進むべきベクトルが定まっていない人が多いと感じる。一環とした行動、思考原則を持っていない(又は認識していない)ことが多いと思う。それを意識して、さらに自己更新している人はめったにいない。

現実を見ないで(その事をメタ認識しないで)自分の都合のいい妄想の世界で生きている人の多いことか。自分は受験のレールを踏み外したので、大学に入学したという事がどれほどの、未来を保証してくれる権利かということを思い知った。全ては自分の都合のいい妄想で現実を見るのが怖いから、無意識的にそっちの方向を見ようとしない。そういう方向に向かってサイコロを投げたときは、必ず期待値よりも低い結果を得る事を知っている。

現実を見る力というものが、いかに獲得する事が難しいかという事を、私は知っている。都合のいい物語が、いかに欲望に願望に沿った甘い毒薬みたいなものであるかを知っている。私はこの世界を変える力は持っていない。持っているのは、自分自身を変える力と世界の見方を変える力だ。

学習エンジン

私は、学習というものが、学ぶ内容そのものよりも、学ぶための姿勢にほとんどの成果が決まってしまう事を知った。何のために知りたいと思うのか?どんな方法で学ぼうとするのか?学ぶための閾値はどれくらいか?学ぶ対象はどこからどこまでの範囲か?無意識に決めているこの姿勢こそが、「学ぶ」という事の全てだ。

学びたいと思う者は、何のために学ぶのかを考え、対象を学びつつ、学び方自体も改良していく。そして、前よりも効率のいい、より洗練された学び方を学び、対象を吸収する。これらを仮に「学習エンジン」と呼ぶことにしよう。

学習エンジンは、どのような燃料で、どんな結果を示すだろうか?何の目標に向かって進むのか?学習ということは、対象を学ぶことももちろん大事だが、その学び方、試行錯誤の末の学習エンジン作りにこそ、もっとも価値が有る。学び方を教えられるということは、つまり自分のエンジンを持っているということだ。

自分の学習エンジンを1から作る事だ。がむしゃらに、何かに取り組んでひとつの事を深い位置まで学んでみる事だ。そこまで学んでからでも、世界が生きるくらいの価値が有るかどうかを決めるのを遅らせても問題ないだろう。一度自己更新する学習エンジンを作ってしまえばこちらのものだ。自動で、全ての認識から学習できるものを拾ってくれる。

そのために自己界面インターフェイスの好奇心をいかにアクティブにし、チャンネルを開き、学習の機会を増やすかだ。学ぼうとしない者はどんなものを目の前にしても、何も学習しない。学ぼうと願うものは、何を見ても学習が可能だ。自分が変わる事は、恐ろしい事である。それは、変わった後の自分が今の自分の制御が出来なくなるからだ。自己が変わらない事、つまり確信して頑として、思考を変えないことは、楽であり、さらには快楽ですらある。それに比べると自分の思考プロセスを更新するということは、恐ろしく、今までの自分が間違えていたという事を認めるという事であり、大きなエネルギーが必要である。

有る程度の複雑性を持った系は、自己回復機能が有る。その機能が自己改善機能よりも強いと、人は変わる事が出来ない。客観的な根拠が無く、確信を持つ事は、「自己の保全のために都合がいいならば」可能なのが人間だ。ただ、外の系が変わらないときに、うまくいっていることがそのままで有るのならいいのだが、外側が変わりつつあるときに、その戦略はうまくいかないだろう。

物事をなすために必要な事

まとめると、結果を残すためには、次のようになる。

1.自分の根幹原則(自己肯定型であり、メタ認識すること)
2.自己を客観視する目(悲観はもっとも悪い妄想である)
3.自分が変わる事を認める学習エンジン
4.自己の外側に興味を持つ好奇心

おそらく、この4つがあれば、変わり行く世界を生きたとしても、うまく自己更新しながら成果を残す事が出来ると思う。

そんな事を、卒論書きながら、深夜まで仕事をしつつ思ったり。

*1:知り合いでも幾人か知っている