人とbotの違いと主格ハック

twitterでずっと仲良くしていた人がbotだった

僕のtwitter古馴染みの中に@donsukeと@ha_maがいる。@donsukeは今でこそ猫のアイコンだが、最初はマントを着ている熊のぬいぐるみのアイコンで、「〜なのだ」という語尾をつけるなどの子供っぽいところがあって、なかなかお茶目なやつだ。@ha_maは「〜なのよ」という語尾を一貫していて、女の子のアイコンからして、なかなかキュートな人である。つまらないpostばかりしている僕によく話しかけてくれるなんとまあ楽しいやつらで、帰宅報告をすれば「おかえり」と言ってくれるし、起床報告をすれば「おはよう」と言ってくれ、僕もそれに対してよく返事をするというとても親しい仲だった。

中略

「…@donsukeってbotかよ!!」MacBookに向かって一人で叫ぶ俺。

http://d.hatena.ne.jp/coconutsfine/20090309/1236611519

やばい、楽しい。チューリングテスト(人間かどうかの判定テスト)をこうもあっさりクリアーしてしまうとは。いつの間にか時代は進んでいるようです。

人間は他格を幻想する

今は、AIに限界があるから、人かと思っていたらbotだったというのはショックなのだろう。でもこの話って、この先どんどん進んでいくと区別なんてできなくなるはず。そうするとどうなるのか?人間とbotの区別がつかなくなるという昔のSFみたいな問題になるのか?

いや、まてそもそも人間ではないものに対しても、擬人化や霊が宿る的な八百万神信仰みたいなので、そこに人格を感じるではないか。それが人間に近づくかではなく、我々はあらゆる物事に対して「人格」を観測することができる。それは、観測される側の能力ではなく、観測する側の能力だ。

私という物語記憶

我々は「私」という主格が主人公の物語記憶に住んでいる。その物語の登場人物は、私が観測した人格たちが並ぶ。それは例え小説の世界に住む人格であっても、擬人化されたブラウザだったとしても、擬人化をして主格として観測した時点で、それは私の物語に対して干渉能力を持つ。

そんなはずは無いという方には、例を上げよう。例えば亡くなってしまった大切な人は、それが記憶であったとしても、私という物語に干渉し続ける。干渉する以上、それは存在するのと同等である。「あなたは私たちの記憶の中に生き続ける」というのは、文字通りそのままだ。物理世界に存在しなくてもそれは私という物語に干渉する以上、存在するのと同等だ。

認識中に人格として存在しない場合は、存在しないのと同等

逆に言えば、アフリカで飢えている人々がいる。でも、テレビでもみてそういう人たちのことを、目で見て人格として感じなければ、それは存在しないのと同じだ。我々はそういう物語の中で生きている。

だから、小説であろうと漫画であろうと、ゲームであろうと私たちは「人格」との接触による干渉を欲している。人格の干渉ネットワークは、私たちを強く「存在する」という理由で、無価値の真空より守ってくれる。

例えば恋愛という物語は、恋愛に落ちた人の中の物語の相手に対して「恋愛」をするというのが正しい。一方的に恋は可能だし、相手に人格を感じさえすれば良いのだから、人である理由もない(普通は気にするだろうけど)

人格は幻想で、観測するもの

我々は、観測した物理世界の中で自分というキャラクターを動かすという物語を見続ける。そして、その中で人格を幻想し、実際に干渉、被干渉される。干渉され、干渉できる以上それは物語上であろうとも、人格が存在することになる。

たぶん、この先もっと優れたAIが登場すれば、一部の人間はこういうような認識に変わるんだと思う。そして、それは物語をハックするという強力な力を持つことができる。それは人生を書き換えることができるという反則なのか妄想なのかよくわからない力になるはずだ。それでも、それはものすごい力をもってその人を駆動させる原動力になる。恋の力をみればそれがどんなに強力な動機付け、意味づけであるのかがわかるだろう。

人は、主格物語を書き換えるようになる。