才能と認識フィルタ

無知は怖いという話

私は、怖いと思う。それは、例えば私の知らない新しい技術が、当たり前のように私以外が知っていたときとか。全然しらないことを、次々と続けざまに飲み込まなければならなくなった時とか。私は怖くなる。それは、私が今までやってきたこと、しゃべってたことが、次々と目の当たりになるのは、恐ろしいと思う。

私と、新しい技術を好きなひとが、話をするとたいてい平行線になる。向こうは、新しいのはこんなのがすごいんだぜと話し、私はそれでどんな新しいアイディアが実現できるようになるんだ?という話になる。なんか、話をしていていつも思うのだけど、なんで私はこんなに新しい技術に保守的なのだろうと思ったりする。

手段と目的

話し合いをしてみると、別になんという話ではなくて、手段と目的が違うから、結果が違うだけで、わかりあえないというワケでもないのだけれど。私は、今までと違うモノが作れる手段が手に入るのならば、それを使うというスタンス。技術屋、仮に新しいものを好きな人たちをこう呼ぶ、は、新しいものを使うというのが半分の目的だったりする。私も、よく手段を目的と入れ替えたり、それで暇つぶしをしようとしたりするのだけれども。

それは、少し話す話とは違うので置いておく。

思考を規定する認識フィルタ

人には才能という、前能力が存在するのだという。なるほど、確かに得意なことは簡単にできるようになるし、苦手なことは何時まで経ってもうまくこなすことが出来ない。この、苦手と得意を規定しているものはなんなのだろう。そんなに簡単に肉体というハードウェアなのか、精神の一部のソフトウェア的な規定を受けていいものなのだろうか。今の時代、もう少しそのへんが操作とかチューニングできないものなのだろうかと思うわけだ。

技術屋と話しをしたり、どうしてこういう考え方をするのかということを、考えていくと、認識フィルタが違うという処まで行き着く。どちらかというと、彼らとはそれでも同族に近いのだ。本当に違う属性の人間とは完全に分かりあえないという経験をしたことがある。彼らは、かなり近距離で分かり合える範囲にいる。

私は、アイディアを実現するというのが大目的である。そのための手段として技術が存在する。そして、技術屋は、モノを作るのが大目的なのだろう。技術は、私のアイディアと同等の重さを持つ。ならば、彼らの技術は尊重するに値するのだろう。私が、アイディアを理解もされずに否定された時の悲しさを思うべきなのだろう。

まぁ、今はその話じゃないけど。

認識フィルタこそが、前能力、つまり才能なのだろう。思考には、プログラムと同様に型が存在する。その人に特有の思考タイプとでもいうべきものだ。これは、ほとんどが生まれた時からのモノで、普通はそんな差異に気がついたりもしない。脳の内部のパラメータだ。もちろん、学習によって能力の上昇はあるが、基本的にこれは変わらない。そしてその思考タイプと、認識フィルタはセットになっている。認識フィルタは、好き嫌い等全ての認識を行う。

なので、得意とか苦手とかもそんなところで決まったりする。それがよきにしろ、あしきにせよそんな感じだ。なので、認識フィルタを弄れば、才能も弄れるよねというお話。

脇道にそれ過ぎて、本流が書けないという結果に。