「面白さ」はいくらで売れるか?

情報には適正価格が無い

情報はいくらでもコピー出来る。だから、原価を割り込まない値段であればいくらでも安くすることは出来る。だから、よくあるオンラインゲームで一番最初に考える馬鹿な考えは、競合より安くするということである。

では、アイテムを安くしたとしよう。売れる数が増えたとしよう、ただ売上が安くした分だけ減ることになる。たしかにユーザの払いやすい価格帯というものは存在して、そこに合わせることで一時的に売上は伸びるかも知れない(大抵売上は純減するだけだけど)。だが、それはゲーム寿命を縮めるだろうし、ゲーム価値自体を縮小させるだろう。

我々は何を売っているのか?

そもそもゲームというのは、何を売っているのだろうか?シナリオ?バトルシステム?キャラクター?面白さ?体験?あなたは、ゲームソフトを買うとき、オンラインゲームにお金を払うとき、何にお金を払っているのだろう。何を期待して、どこに価値を感じているのだろう?

さらに深く考えてみよう。遊びというものがある。遊びはなぜ面白いのだろう?なぜ面白いと感じて継続したいと思いたくなっているのだろう?遊びが面白い源泉はどこにある?

ではさらに深く考えてみよう。我々は何に価値を感じているのだろう?価値の源泉はどこにある?

まだ深い問題がある。「我々」人間とは何者なのだろう。人間はなぜいる。なんで存在する?我々と対となる質問は、「ここ」宇宙とは、なんなのだろう?なぜ在るのだろう?

この問の先にあるものが、一番最初の問の答えとなる。答えは書かない。自分で考えてみてほしい。

能力とはなんなのか?


下の弟が、近く就職活動を始める。会社で、面接に出たりする。これらで、疑問に思うのは、彼らが能力をすごく漫然としか考えていないということだ。仕事において、能力があるか無いかというのは、ものすごく差ができてしまうものである。

それは学業ができるかどうかではない。それは知識を持っているかどうかではない。それは思考ができるかどうかだけではない。それは行動ができるかだけではない。それは簡単に言うと遂行能力の有無のことだ。それは主体で思考し行動し評価しフィードバックできることだ。それは行動様式であり、行動選択の事だ。

能力は、精神の変形をも含む、精神の機能形のことだ

昔私は、私自身を剣のような武器だと認識していた。単一思考能力、思考展開などが私の得意な点であると認識していた。得意なことはものすごくできるけど、できないことは全然できない。私自身の特性は、明らかに偏りのあるものだった。将棋の駒で例えるならば、香車である。そして、私自身を使いこなしてくれる人間が現れるのを待っていた。つまり、単純能力だけで価値があると勘違いをしていたのだ。

単純能力を行使するだけでは、作業者としてのみ力を発揮することとなり、それは作業の出来栄えに関してのみ私は左右することができて、その作業に関わる結果に変化を与えることに責任を持たない。それは単純に、指揮ができず、作業しかできない人間のことだ。それは単体では使えない人間だ。責任者が、その成功のフィードバックを通すことによってのみ、漸くうまくいく。

私は、自分の限界を知った。つまり、私自身が何も出来ない人間だと思い知ったのだ。計画ができない、計画の遂行ができない、結果の評価ができない、評価のフィードバックができない。つまり、PDCA回路が回ることなく、ただなんとなく、物事を進めるだけだった。目的をつくらず、目標を立てず、行動を起こし、結果の評価を適当に行う。

私は残念ながら、主体者で無かった。そして、それは本当にこっぴどく辛く苦しい思いを味わった後にようやく気がついたのだった。私は切れ味のいい剣になろうとしていたが、それを使いこなす自分という主格が必要であると、ようやく気がついたのだった。そしてその時に私は主格が無かった。

主格発見

私は、面白いことを適当に回すという回路しか持っていなかった。つまり、餌を求めて歩いて、それを見つけたら食べるというロジックで生きていた。でも、そのことにそれで問題ないときには気がつかなかったのだ。それは、必要にならないといらないものなのかもしれない。それは、本では手に入らないものかもしれない。私は生存の危機を感じて、生きたいと思った結果として、その主格を手に入れた。それは、パッと手に入るようなものではなく、主体で人間関係をひたすらシミュレーションし尽くして、その主体が私だと思えることで、手に入れた物だった。

主体が私に有るのならば、私の物語が作れるから、計画も行動も評価もフィードバックも簡単なのだ。能力がPDCA回路の有無であると明確に考えられないのならば、それは主体が明確に定まっていないからだろう。それを手に入れるには、今までの行動様式で乗り越えられない壁が必要なのだ。PDCA回路とはエラーを取り込んだ形での回路のことだ。エラーを直視し、次の行動に変化を加えてより、生存競争を生き抜くための行動を取ることだ。

標準以上の回路形態

私は、能力をものすごく持つことで、それに最適化された思考形態を獲得している人をみてきた。それは標準型PDCA回路を持っている上にさらに、火を入れて叩き上げて創り上げた思考形態そのものである。それは能力を、学ぶことを最適化し、使い方を最適化し、考え方を最適化し、人間関係を最適化したものだ。機能美とも言える芸術的な精神構造の事だ。それは研ぎ澄まされた鋼のように、打たれづよく粘り強く、美しい。

ただし、その最適化は、限られた物に行なってしまうと、変化に対応出来なくなる可能性がある。矛盾する複数体系を取り込みながら最適化を行うことができる様になりたいと、今私はそう考えている。それは、系の中に矛盾を受け入れつつ、評価自体の評価フィードバックを行い、評価の変化についていけるようにしたいと考えている。メタ化された自分というものを作ってみたいと思う。

なぜエンジニアは勝てないのか?

エンジニアは、他の職種では使えない魔法を持っている。その力は、抽象化による自動化だ。ただ、非常に残念なことに、その力を十分に発揮できているとは言えない。色々なエンジニア(会社)が作ったサービスを見てきたが、エンジニアの色が濃く出ると、大抵うまくいかない。よっぽどそのエンジニアが天才的であれば違うのだろうけど、出来ることは「プログラミング」の域を出ることはめったにない。

私自身、エンジニアとしてソーシャルアプリを作っているが、プログラムしか出来ないエンジニアの弱さを痛感する。プログラムは抽象化のための作業だ。作業を給与を得るための交換するものとして見ている人と、目的を達成するための選択と行動としてのプログラムをしている人では、結果は10倍どころか100倍くらい違うところを観てきた。

強さと弱さ

単純エンジニアは、ものすごい力を持っているに関わらずとても弱い。なぜならば、どのようにすれば目的を達成できるかという目を持っていないからだ。究極魔法は唱えられるけど、どこにぶつけるものか、さらになぜ唱えるのかというのを考えなくて良い状況にしたり/されたりして、飼い殺しにされるのをよく観てきた。スキルを持ちながらもそれの使い方を、知らないのだ。

スーツとギークという対立項がよく表現される。意見が合わないなら、合わないでいいが、なぜ対立しているのか考えたほうがいい。我々は、達成するべき共通の目的を持ったチームであるはずなのだ。対立項というのがそもそも間違いで、我々は協力して目的を達成するために、わざわざ時間という人生で一番貴重なものを消費しているのだ。

大切なことと

どんな言語とかエクセルとか仕様とか会議とか、それらは全て目的にたいして最適化されるべきものであって、自分たちの欲望を満たすものではない。ただし、モチベーションとしてそれらの項目を使えるのならば使えばいい。そして、そのような目的を達成するのが、無意味であるというのならば、去るなり、変えるなりその無意味さを解消すればいい。

話は単純で簡単なものだ。なぜエンジニアが、他の人達を馬鹿にしたような態度を取れるのかというと、それは馬鹿で知らないからだ。社長がとか上司がとか顧客がとか社員がとかアホで間抜けに見えるというのなら、同じことをやってみるといい。やった上で、どうすればこの状況が打破できるか、相談でもすればいい。

属性のトレードオフ

エンジニアの美徳は、他の職種とは違う。「傲慢」「短気」「怠惰」である。これらはより抽象化を行うための態度である。ただ、これはプログラムに向かうときの態度であって、他の要素に向かう場合は当然色々考えたほうがいいだろう。サービスを作るときに、奇をてらう事だけを考えて、どんなふうに利益を上げるのかを考えていないとか、とりあえずPVさえ集めればなんとかなるとだけ考えて、戦略なしで作るとか。

エンジニアがなぜ勝てないのか?という問題の答えはここにある。エンジニアの属性が強ければ強いほど、相反してその他のことが目に入りにくくなってしまう。それは、プログラム自体が楽しいから、つい楽しさを追求してしまうということと、状況が認識できないことを認め難い属性を持っているからだろう。それらのトレードオフの発生する状況が見えていない。

だから、エンジニアはマーケティングを学べ!!

こんな状況だからこそ、この状況を超えられる人は、勝つことができる。みんなが目指すような、分かりやすい道はあとから登っていっても、勝てることはめったにない。誰も登っていない道を登るべきだ。そうして登ってみると、自分に何が足りないか気がつくはずだ。

マーケティング戦争 全米No.1マーケターが教える、勝つための4つの戦術

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目からウロコが落ちまくった本。マーケティングの本質を戦争として、理解する。この本は、仕事をする人なら絶対読んだほうがいい。超楽しい。

そんなマーケティングなら、やめてしまえ!―マーケターが忘れたいちばん大切なこと

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こちらは上の本で失敗したと避難されているコカ・コーラのニューコークを作った人。それは失敗ではないと、負け惜しみではなく説明してくれる。マーケティングが、魔法ではなく、手段であることを教えてくれる。

意識という生存戦略は最強か?否か

意識の発生

あるところの説によると、紀元前頃は人間は意識というものを持っていなかったということだ。どういう事かというと、その頃記録された書物、つまりオデッセウスとか聖書とかそのあたりを調べてみると、紀元前頃には主体というものが無いらしい。そしてそのかわりにあるのが、神の日常的な存在だ。

どういう事かというと、神が日常的に現れたり、話したり、命令したりというのは、紀元前くらいまでは当たり前に行われてきて、それが記録されている。そして、そのような記述は丁度紀元頃に無くなり、神は降臨しなくなり、人間は主観を手に入れたのだという。それまで人間は、自動的に動いており、それは自分というものを主観的に見るための能力を持っていなかった。

その違いが、旧約聖書新約聖書という違いに現れており、ユダヤ教からキリスト教に変化したというのは、まさに意識の発生による宗教側の適応だったのだという。

なぜ、意識が生まれたのか?

ではなぜ、意識が生まれたのだろうか?意識は、我々を苦しく嬉しく、痛く快くしてくれる。意識がなければ、我々には動物と同じように一時的な感覚とそれに対応した感情だけで動いていたことだろう。その世界は、顕現する神が支配しており、その支配によって私が動くといった具合だ。

私は主観が発生した理由をこう考える。我々が、そのように進化したのは、より複雑な問題を、より正しく解けるようになるためだ。そして、意識は生存率を高めてくれる。意識が無いときの人間は、選択が自動的になる。選択子は、誰かが選んだのではなく、いつの間にか選ばれているものになる。

我々の住んでいる世界は、単純な反射だけで生存を許してくれるような世界ではなかった。特に寒い北半球のヨーロッパのあたりは、とてもではないが、単純化した思考で生きていけるだけではなかった。意識の発生が、丁度人間が自然を克服したあたりだというのは、たまたまではないのだろう。今まで敵が自然だったのが、生態系の頂点にたった我々は、人間同士で争うようになったのだ。

全ては必要があるために発生する。人間同士の複雑な考えを元にした、シミュレーションは非常に難解だったのだ。意識の発明は、他人の思考のデフォルメの成功、つまり人格という概念を創り上げたことによる。

人格とは

人格とは、ある人にたいする入出力のデフォルメモデルのことだ。そのシミュレーションモデルが、手に入ると、そのモデル世界における自分の位置に存在するモデルを必要とした。それは、他人のモデルと相互作用による解を得るためであった。私という人格モデルは、「意識の私」こそが私その者であると誤解をすることで、意識は生まれた。

私という意識は、シミュレータの中の単純モデルであり、その存在は私の脳の中にしか無い。でも、あらゆる幻想とは認識であり、認識をするということは、それを土台とした世界が広がるようになる。我々は、認識の外に出ることが出来ない。

というわけで、意識は、「意識の私」が「物理的な私」であると勘違いすることで発展した。より高度な発展をしたために、ある弊害も生まれた。それは、ある種の精神病だったり、自殺だったりだ。そして、恒常的なまどろみのような多幸感もおそらく失った。意識を持った人間は、悩み、苦しみ、そして主観的な死を手に入れた。もちろん、それとは逆に、喜びや楽しみや、主観的な生を手に入れた。

人格モデルによる、人類の発展

意識は、最初はシミュレーションモデルでしかなかったが、やがて本体を乗っ取った。そして、シミュレーション世界を、現実世界と定義することで、その世界こそが「生きている世界である」という定義を行った。モデルによる単純化は、計算数を減らし、他人を理解する、私自身を理解するという幻想を与えた。そしてより多くの、深い計算を展開することができるようになり、それは武器であり防具となった。

人間同士で、言語プロトコルを解することによる、支配や、隷属、人心掌握、譲歩、交渉といったあらゆる生存戦略が生まれた。それらの戦略は、言語による現実シミュレーションを認識を追加することによって拡張した。新しい認識モデルの拡張により、さらなるメタ戦略が生まれる。あらゆる生存戦略が、絶対的なものではなく相対的な優位差しかもたない。

意識と民主主義の相似

意識とは、脳内のモジュールによる、相互作用による選択装置であると考えることができる。そして、民主主義も同様の選択装置である。そこではルールが絶対的であり、意識では内部のシミュレーション結果が良いものを選択するということ、民主主義では、内部の人間の多数決による選択を良いものとしている。

それらの2つともが、「選択をしたい」と言っている。選択をすれば、それは良い結果か、悪い結果を残し、その結果が自らに降りかかってくる。そしてその結果を学習することで、よりよい選択方法を創ることができる。そのフィードバックの為に、意識には意図的な喜びと悲しみと痛みが備わっている。より、鮮明に「今」を認識し、より早く、よりよい選択を選ぶためだ。

意識そのものが最上の選択方法か?

意識というのは、まだ2000年ほどしか使われていないが、その上では最も普及している選択方法である。意識は、脳内にシミュレータを作り、そのシミュレーションされた世界を鮮明にしてきた。だからこそ、多分次の選択方法も存在するのだと思う。しかし、その方法も所詮生存戦略に過ぎないので、意識自体は今後も残るのだろう。今でも、無意識な戦略が一部で存在するように。

その一端は、今では精神病者として扱われる形態に収まっているかも知れない。多重人格者は、その自己モデルを複数に分けることで本命の人格を守ったのだろうし、より多くの欠乏に依る才能を引き出すこともできる。アスペルガーは、コンピュータ社会に最も適応した種族なのかもしれないし、ADHDは、標準から離れた思考回路による閃きを得られるかもしれない。意識という組織自体が、標準普遍的なものであるなど誰もいっていないのだから、我々はより多くのより適応した、問題解決戦略に脅かされるかもしれない。

共有できるものと出来ないもの

最近は色々と考えることが多すぎて困る。何を考えているのかというと、組織の立ち位置というか、組織のあり方というか、自分の立ち位置というか、自分のあり方である。

私は、どう仕様も無い理由で、どうにもならないトラウマっぽいものがある。それは、「ビジネスが上手くいかなくて、みんなの心がバラバラになって組織が死ぬこと」である。どうしようもなく怖くて、痛くてしょうが無いので、それを感じるようになることを極力避けたいと思いながら行動するのだけれど、どうしようも無いときにはどうしようもない。

それは、世界のルールみたいなもので、人間が死ぬのと同じような頻度で、組織は死ぬ。私は、それが怖くて痛くてしょうがない。本当に嫌だから、みっともなく、恥ずかしくあがく。危険が迫って、どうしようも無くなる前にどうにか出来るようにしようとする。だからといって、その行動が理解されるのは少ない。それは当然で、私自身もよくわからない感情に踊らされている面もあるのだから、よーく考えてみないと、その感情はわからなかったりする。

なんで私自身が怒っているのか、私にもわからないことが多いほど、私は鈍感だ。なんというか、滑稽で、恥ずかしいのだけれど、組織がうまく行けばいいと考えて、後先考えないで行うのは良くないのだろう。自分の感情がうまく理解できるようにならないと、いつまで立っても、泣いているだけではよくないよなぁと思う。

共感できるもの、共感されるもの

こんなことを言ったって、滅びる痛みを知らない人には、どうにも伝わらないと思う。よっぽど感受性が強ければわかるのかもしれないが、私自身も経験していない私に伝えるとしたら、経験させるしか無いと思う。そういう意味では、私の今の状態は非常に不自然でしょうが無いと思うのだ。

だから、断絶は仕方ないのだと思う。私に伝える気があっても、相手に伝わる気がなければ、意味はない。伝わるとしても、それは表層でしか無い。暗くどんよりとした世界が伝わるとは思えないし、逆に伝わらなくてよかったとも思う。それだけ、ひどい世界だから。

でも、根本のそういう気持ちを理解されずに、お前が平和を乱してる的なことを言われると、辛い。相手も、別に言いたくて言っているのではないと思うし、私は相手のためを考えていても、それを相手が望んでいるわけではないというのは分かっているけど。やはり、理解されないのは悲しいし、苦しい。

ここで、これだ!という解決策は無いし、相手も私と同じ目にあったあとなら、こういう事かということが理解できるのだろう。私は両者がわかりあえないことが、よく理解できるので物凄く悲しいと感じる。ああ、両親はこういう気持ちだったのだろうなと、今思った。

夢に食べられるとき

夢には消費期限が付いている

あまり言われないけど夢には、消費するための期限が付いている。それは、その夢が具体的でベタなものであればあるほど、消費期限は短い。時代の流れが早くなったために、子供時代の夢を叶えるのは、できなくなってしまった。思春期で選んだ夢を叶えることも、非常に困難になってしまった。具体的な夢は強力で、有効であるが、一方時間というこの世界での最大の敵と戦うこととなる。

子供のときに考えた夢は、何も知らない無知から生まれる。思春期の時の夢は、その時の偏りで決まる。青年期の夢は、その時の常識で決まる。夢を達成することに価値があるのではなく、その達成した分だけの価値があるに過ぎない。夢は、叶えられない場合呪いになるという言葉がある。それだけではなく、夢は叶えただけでは大した意味が無い。

夢は素晴らしい?

夢を達成することは、大変に素晴らしい。本人にとって嬉しく、周りにとっても素晴らしい。ただしそれが、素晴らしいものであれば。夢を達成することが素晴らしいものではなくて、素晴らしい状況になったことが素晴らしいのだ。夢は経年劣化する。劣化を認めたくないのならば、夢を更新しないといけない。

時代が進むのはますます早くなり、10年前のスター職業が、落ちぶれたりすることが容易に起きる。夢に具体性を持たせるのはいいが、悪魔で夢は一時的な目標点であって、最終的な目標点ではないことを考えなければならない。必要な能力は、思い込むことではなくて、周りを見ることだ。

気づく力の有用性

ますます流動的な世界になっていくため、それを見極める認識能力が、ますます重要になってきている。それは、常識にとらわれず、認識することだ。一度見たものをキャッシュで処理しようとせずに、それの小さな変化を見落とさない能力だ。この能力は誰でも磨くことができるが、そんなに磨いている人を見たことがない。

気づきの能力は、ものすごく希少で最高に万能な能力だ。自分が夢を目指そうとして、いつの間にか夢に食べられていないか見渡してみるといい。

昔の自分を説得してみる

若い人と合うとよく思うことがある。それは、もう少しうまくやればればいいなということだ。私が十分に成功しているとは言えないとは思うが、少なくともそこそこ自尊心を保てるほどにはなった。そこで、過去の自分にこうすればよかったのにと思うことが山ほどあるわけだ。

そう思うからこそ、したり顔でそのアドバイスを偉そうに行ってしまったりするのだが、大抵が的を外している。つまり、伝わらないアドバイスにとどまってしまう。それをなぜなのかと考え、でも良く考えてみると、私自身もそうだったことを思い抱いた。

私は無謀で、無茶で、適当だった。高慢で、無能力で、馬鹿でそのことを認識していなかった。過去を振り返ると恥ずかしいことばかりだ。しかしながら、恥ずかしく失敗したからこそ、今の自分があるとも感じている。

自分が残念な事を説得し、そして諦めさせる

というのは、無理だろうと思う。昔の私は、今の私の言葉を強行的に言った場合、聞かないだろう。反発するだろう。

尊敬と信頼を持って、接してかつ、迂回してプライドを保ちつつアドバイスをしてみる

これなら、よほど馬鹿な昔の私でも参考にはするだろう。しかし、よほど馬鹿な私のことだから、私が特別である意識が抜けない可能性は高く、その場合、高確率で失敗する。残念です。

説得は無理だ

説得は無理だ。というのが私の結論だ。今では少しはましになっているが、昔の状態だったら、まず人の話を聞くことが出来ない。その時点で、ほとんど終わっている。説得なんて出来ない。昔の自分の求めるものは、今よりもっと刹那的で、「面白さ」とか「楽しさ」だったりするから。

私は昔の自分に何ができる?

方向を変えることは出来ないし、無理やり変えたとしたらそれは致命的な失敗として、人生を破壊するだろう。あの時こうして入ればということに縛られるほど、意味のないことは無い。だから、彼自身の決断の方向を変えることは出来ない。

私が今やるとしたら、それはなんだろうかと考える。昔の自分の近くにいる人はさぞかし危なっかしい思いをさせていたのだなと思う。申し訳ないですね。

私は何をするだろうか?出来るのは大したことでは無いだろう。立場によっては、色々なことに挑戦をさせてみるかもしれない。そして多くの失敗をさせると思う。別に成功するならそれでもいいし、要するに経験を増やすように仕向けるだろう。チャンスは多くのところに転がっているといい、独自の考えを褒め、もっと伸ばしたほうがいいことを指摘する。

視野を広げて、より多くの人と深く関わり、すべての人にはその話を聞くだけの価値があるということを教えられたらいいなと思う。そうだ、私の周りの人がやってくれたことだ。当時の私にはその意味と、価値がわからないのだろうけど、同じような立場にたったときに必ずそのことをありがたく思えるようになる。

私が、ひとりで生きてきたのではなく、より多くの人に支えられてきたということが、克明に見えてくる。これは、みんなの単純な好意であって、それ以外の何ものでも無いことを悟って、自分が何をしたかを知って、泣くといいさ。

それ程に認識のギャップは大きく、私は幼い。でも、そこは通らないと成長出来ない。全てのことが簡単にこなせるようなタイプでもないし、天才といえるほど頭も良くない。だから、その経験は必要なのだ。

未来の私は何を言おうとするのか?

5年前の私から、再帰して5年後の私を想像する。それは今よりも多くの経験をして、多くの試行を積んだ私だ。私は何を言うだろうか?おそらく、全く同じことを言うだろう。今の私の話を聞いて、理解を示し、共感をして、やっていることを褒める。そして、少し危ないところにアドバイスをしておく。どういう選択をしようが、その選択を自分で選択したということを全面的に肯定するだろうし、それで何が起きるかを知っていても、それは必要なことだと知っている。

ああ、私はフラクタルに繰り返す存在だなぁ。それは同じところを通っているのではなく、螺旋状にメタ的にひとつ上に登って同じことを繰り返す。