日本人の人殻あいまい性仮説

最近思うのは、日本人の自我の形が西洋人と違うのではないかという仮説。そのためにローカルな問題がいろいろ発生しているような気がしてきた。

まず、とりあえず前回考えた「殻」仮説から。私という概念の拡張と殻というものの定義を行った。

殻を失うということ

とりあえず、私の拡張をする。私というのは、私という認識により、殻を作っている。それが私というものだ。そして今の一般的な私は、物理的な体を持ったレイヤー(つまり体)での視点だ。つまり1人で私である。これは正しいのだろうか?そして、最適な記述方法なのだろうか?

私は、「私の側」であること「所属」することを私の殻としてみることが出来る事に気がついた。つまり、私は、1人の意味の私と、家族での私と、会社に属している私と、国に属している私と、地球という生体系に属している*3のだが、今回私はサークルに属しているという殻を失ったのだ。殻は安定した殻であれば、持てば持つほど安定する事が出来る。

原子で、電子が閉殻することで、安定したがるように、私は家族殻、会社殻、人殻、友人殻、文化殻、人間殻など安定した殻を持つ事で安定したいのだ。私は、原子と同じで、安定したいのだ。殻に囲まれていきたいのだ。それを感情的、文化的、心理的に幸福と言う。

http://d.hatena.ne.jp/kaerusanu/20070313#1173786795

このときに、コメントで色々話し合っているが、日本人は人殻(1人の人としての外側)が薄いために、外殻をたくさん作って安定しようとしているのではないかと思った。

しかし、ちょっと違うような気もした。

勇気と恐怖と全体と

ギリシア全土の存亡のかかったテルモピュライの戦い。レオニダス王以下スパルタ重装歩兵300人は、総数200万とも伝えられるペルシア帝国軍の侵攻を7 日間にわたって阻止した後、全滅した。

スパルタ兵士の戦いかたは、ギリシャ方陣

右手に長い槍を持って、左手に大きな盾を持ち、お互いに密集して方陣を組む。ギリシャ方陣では、戦士は隣の兵士の持つ盾の中に身を隠す。兵士の盾は、自分自身を守るためのものではなく、隣に立つ戦友を守るためのもの。

この戦法は、陣形が崩れなければ、威力が強いけれど、兵士がお互いを信用できなくなった瞬間に陣形は崩れ、方陣もろとも潰されてしまう。

200万の軍勢を前に全滅したスパルタ兵士は、どうやってギリシャ方陣を保ちつづけられたのか?
自らの死を前にしたとき、人は戦友を守るために自らの盾を掲げられるものなのか?

http://medt00lz.s59.xrea.com/blog/archives/2007/03/post_469.html

群と個からの関係性におけるあり方を考える。なぜ体の細胞は自由意志を使って、自由なことをしないのだろう。単細胞生物で有るならばそれをすることが出来るはずなのに。ただ、一生を体の表皮細胞で過ごすことをどうして選ぶのだろうか。それは彼(細胞)が、私という人殻を背負っているからだ。

たまに、勘違いした細胞が人権運動を起こして、革命だ人権だと騒いだりする。ああ、がん細胞だ。もちろん、彼らは人殻を持たない。彼らは私ではないものだ。私という細胞コミュニティが死のうといいのだ。彼らは彼らの主張さえ通れば。

次のmedt00lz先生の記事も面白い。これは、正直やられた。

ムカデの足は考える

ムカデだって生き物ですから、餌を食べないと死んじゃいます。餌を食べるには、他の個体との競争に打ち勝たないといけません。

ムカデの足に意思があったとして、もしもその足の何本かが社民党の党員だったり、朝日新聞の熱心な購読者だったりしたら、何がおきるでしょう?

  • 弱い足にだって平等な血流を受ける権利がある。循環器は我々に対して謝罪と賠償を…
  • 勝つのは大事だ。だがちょっと待ってほしい。相手の声に謙虚に耳を傾けるべきではないか

こんなことを言いだす「足」を持った個体は、餌にありつく前に、足がもつれて死んじゃうでしょう。

http://medt00lz.s59.xrea.com/blog/archives/2007/03/post_470.html

簡単な思考弓によって、ムカデの足は駆動する。それはムカデの足がムカデ殻の中にいるためだ。そのため、ムカデの足は利他的行動を取る。

日本と西洋の自我の境界

仏教では、我についての議論が色々有るそうだ。以下妄想。

仏教発生の当時のアジアでは、人殻よりも集団としての殻の方が強かったと思われる。それは封建的社会によく見られる光景で、私たちの歴史は自立して駆動するために次々と殻を手に入れていったものと思われる。西洋では早くからその様な傾向が見られ、全か無かの二元的世界が展開された。そのことは後々科学が発展することを大いに助けたと思われる。

一方、アジアではその様な二元的考えが発展しなかった。アジアは、殻つまり物事の判断基準をきっちり引かないことで、認識していたようなのだ。なのだと言われても困るだろが、思い出して欲しい。私たち日本人は、主語をあいまいにし、我を通さないことを美徳とする。誰が決定したのか良く分からず、責任もあいまいだ。そして、世界観は八百万の神といい、全てのものを擬人化したかのような世界観を持っている。

西洋は一方で、一神教で、天使か悪魔かというような世界観だ。神の物は神のもの。悪魔のものは悪魔のものだ。

ずいぶんあいまいだと思う。まるで日本人は、世界が私の中に有るかのように感じているようだ。自我の境界があいまいと言えばいいのかもしれない。そして、西洋の自我の定義が輸入された今日でもその摩擦は絶えない。西洋人というソフトウェアは、一人で動くが、日本人は群がいなければ本来の姿をとることが出来ない。

西洋人から見るとずいぶんあいまいで、はっきりとしない民族だろうと思う。日本人は、何でも吸収してしまう変わりに、何でも日本人というソフトウェアの解釈から逃れることが出来ない。良い悪いではなく、唯そこにあるのだから。

日本人は自我の境界があいまいなのではなく、認識の境界があいまいである。

どうやら、日本人は自我の境界があいまいなのではなく、認識の境界があいまいであるようだ。その様に説明すれば、全てがすっきりする。アジア的な考えの全部を全部として受け入れるもの境界があいまいなためだろう。

問題は、そのことを気が付かずに後進国の考えとして葬った(つもり)で、西洋式の自我を取り入れようとしたことだ。西洋式のシステムは日本人にとって、おそらく守ってくれるものが無いように感じ、厳しく感じるだろう。そして西洋人は日本人のシステムを、あいまいかつ不思議なルールがあって、ややこしくまた甘いと感じるだろう。

文化が違うというのは、こういうことなのだ。ただ、言葉が違うのではない。言葉が組み立てる世界観が違うのだ。

直感を信じろ、自分を信じろ、好きを貫け、人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。

ネット空間で特に顕著だが、日本人は人を褒めない。昨日もLingrイベントで言ったけど、もっと褒めろよ。心の中でいいなと思ったら口に出せ。誰だって、いくつになったって、褒められれば嬉しい。そういう小さなことの積み重ねで、世の中はつまらなくもなり楽しくもなる。「人を褒める」というのは「ある対象の良いところを探す能力」と密接に関係する。「ある対象の良いところを探す能力」というのは、人生を生きていくうえでとても大切なことだ。「ある対象の悪いところを探す能力」を持った人が、日本社会では幅を利かせすぎている。それで知らず知らずのうちに、影響を受けた若い人たちの思考回路がネガティブになる。自己評価が低くなる。「好きなことをして生きていける」なんて思っちゃいけないんだとか自己規制している。それがいけない。自己評価が低いのがいちばんいけない。

http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20070317

なぜ、日本人が他の人を責めるのか。それは他人と自分の境界が曖昧な為に、自分を正すつもりで発言するとそうなってしまうためだ。ためしに全く私たちと違う異色の者に対して、なんて発言するかを考えてみればいい。「ガイジン」と言うだろう。日本人はなんのけなしに使うが、これはそのままの意味だ。Outsiderとして、私たちで無い存在として、私たち日本人は感じてしまう。外でないものは内である。だから、日本人は日本人を内と感じている。ガイジンであったとしても、親しくなれば内になる。

内と外、家の概念についても、殻と殻のあいまい性で全て説明がつく。日本人というのは特殊なクラスターOSだと思う。