次の世界

5年後から見た現在

世界は形を変え続ける。現在ネックになっているものが、5年後にはネックが消え、発展していることもあるだろう。そう思うと、現在の飽和しているサービスは、未完成、未発達であることがわかる。発展の余地は常に存在する。ただ、それがよいほうの発達なのか、衰退に合わせた適応なのかは、わからないが。必ず、今無くて5年後、10年後に存在するものはある。だから、アイディアに限界は無いはずだ。

相互作用の強化

SNSが隆盛を極めている。3年前だったら、思いもよらなかったのではないだろうか。youtubeGoogleに2000億円で買い取られた。創業から、わずか18ヶ月のことだそうだ。時代のスピードが加速している。その理由、変化スピードの見える先を、考えてみようと思う。

情報化する前は、組織として固体を目指すのが一番だった。一端を叩けばそれは音波として、一瞬で伝わる。しかし、繋がっていない固体同士は情報は伝わらない。いかに情報を溜め込んで組織として硬い固体を目指すかだった。血液は資本、資産は物。

情報化をして、情報は一瞬で組織を超えて流れるようになった。これは、相互作用の強化だ。現在では、昔の固体よりも音の伝わりの早い液体だ。血液は情報、資産は人間。

情報は早く伝わるばかりでなく、忘却されることが無くなった。いつまでもサーバに残り、コピーされ、永遠に残る。ソーシャルな記憶装置を手に入れた。昔は本しかなかった。本は、物であるし、印刷技術ができてから、大量に出版可能になった。とはいえ、読まれる射程が小さく、数百年もすれば、物質的に壊れてしまう。

自己界面の再構成

相互作用の増幅にしたがって、心理的に何が変化するのだろうか?

SNSの問題点が最近取りざたされている。mixiではmixi疲れといわれている問題点がある。情報の交換は、より早くなり、物理的な限界がなくなったので、人間関係をいくらでも大きくできるという面が、逆に縛りになってしまうということだ。Mixi自体の問題はほかにもある、人間の社会的な付き合いで使われる心理的な仮面:ペルソナが使えないということだ。これは従来型の1:1の物理的な関係を築くときに使われてきたものだが、すべてをすべての知り合いにオープンにしてしまうため、使い分けができなくなる。これも問題だ。

ペルソナの問題は、タグ付けなどの技術的な自己界面の作成によって、解決するだろう。しかし、際限のないコミュニケーションと、それの外的ストレージによる保存は、自分という概念を変える必要が出てくるのではないだろうか?

知識を覚えることが、コストの削減により、価値が低下したように。過去の記憶というものも、外部の記憶装置(写真、日記、メール)などによって、外部に出てしまうことにより、コストは下がり、価値が低下していく。そして、外部に出力することで、共有もより容易となる。自己という定義も今より拡張したものとなるのだろう。

自己の拡散と最適化

自己は拡散しようとしている。より多くの情報が入ってくる。より、多くの情報をアウトプットする。自分の体という、ハードウェアを抜け出して、電子の世界に神経を張るようになる。今は、思考自体を自分がやる必要があるし、そこでのネックとなっているけれど、それもいずれ解消されるのだろう。そうなれば思考アルゴリズムの切り売りなどできるだろうし、自分という存在が元は人間だったものとして、理解される。そうしたとき、自分を自分として繋ぎとめておくものは何になるのだろう。記憶はすべてコピー可能であり、価値は限りなく低下している。他人が感じることをそのまま感じることができる。

私は複数の存在となり、何を求めて生きるのだろうか?肉体的な死を失ったときに、なにが欲しいのだろう?宗教は救いと永遠の命を求め、与える。宗教は古い時代から、世界の解釈を人に与えてきた。また、科学の発展とともに新しい解釈に変えてきた。私たちの存在に対する新しい解釈が作り出されるのか。

時間的な区切りが無くなると何が一番怖いのだろう。それはやはり暇だと思う。つまらないことだと思う。昔の貴族のように遊びのように科学を極めたりするのだろうか?また、芸術や、価値の創出を遊びとしてすることになりそうだ。

郡体としての個

帯域を増やし続けると、自己と他との違いが無くなる。と言うよりも、自己と他己の境目は、ただの帯域制限でしかない。帯域が物理的に制限されてしまうから、その制限の境目を自己の境界面と呼んでいる。極端に情報化すれば、すべては一体となる。ただ、それは一元的な世界ではなく、多様性の溢れる、目的、世界観を共有する集団の組織が、全体として個体となる。その組織は自律し、成長し、死ぬ。食べたり食べられたり、適者生存の生態系が形成される。今の社会は資本が血として流れるが、次の世界は情報が血として流れる。

次の自己の境界はどこになるのだろうか?世界観が違いすぎると、話を話しても通じない事がある。どこかそのような帯域の制限が組織の境界となる。中と外は境界によって区切られ、自我が形成される。群としての個は、また同じように成長し、世界はより高次元に組織化される。私たちは人間だから、人間単位でしか考えにくい。現実は、思考が論理が高度化するように、構成要素であり、構成要素となる。

世界の望み

私たちが、思考を収束させるように、生態系が環境に合わせて自分の形を変えていくように、世界は変わり続ける。自己成長、組織化を続ける。何かを求めて。それが何なのか、類推すれば、多様性、自己保存、自己成長、そして永遠の暇つぶし。どうやら、このような世界の縁に居る様だ。その続きもひたすらループしている。限りないトートロジー

生きる理由であり、生物が死なないための戦略。ひたすらに組織化を目指し、面白い世界、カオスの縁の世界を構築する。生命と言うのはその望みの具現化であり、意識と言うのもまた具現化。情報かもまたその流れ。エントロピーは増え続けるはずなのに、向かう方向は逆。

抽象から具象へ

カオスの縁に向かう世界は、分かったが具体的にはどのように変容するのだろうか?よくある未来像との誤差はどのくらいになるのだろうか?今から見える未来像は、環境破壊、戦争と世界の滅亡へという最悪のルートから、すべての問題が何らかの解決が提示される限りなくよい未来へのふれ幅がある。

現実は、その中間ぐらいだろう。物理層の技術の進歩は劇的に上がるとは思えないし、環境問題も社会問題もそんな解決のすぐつく問題でもない。実際は、問題も存在し続け、さらに問題は増え、少しは技術は進み、一番進むのは人の情報代謝だろう。人は情報エンジンとして、回転し続ける。繋がるためのノードとして人ネットワークが構築されれば、進むのは早いだろう。


カオスにルールを与えるに続く(続いているのか?