行動空間と禁忌の影

禁忌の影イメージ

思考空間と行動空間

思考空間は思考が可能な範囲。行動空間は行動が可能な範囲。あらゆる可能性が有る限り、どんなリソース空間でもいつかは埋められていく。それが停滞する原因がいくつか有る。ひとつは「時間」時間で制限される。未来なら可能なのに、現在では出来ない。また、逆も裏も対偶も。

もうひとつは、ソーシャルな制限、つまり法律とか呼ぶものだ。これは、致命的になる部分だけを回避するように権力を集めて、結果として1人のエゴで不幸な事が起きないようにしている。これは、致命的な「点」その周りに用心深く法律を敷いておく。踏まないようにって。

さらに言えば、倫理観もまた制限、これは法律よりももう少し広く周りを取り巻く。例えば「人を傷つける」のがだめなら、もう少し弱い「悪口を言う」と言う事をしないとか。倫理観はさらに用心深く周りを取り除く。

行動空間を広げるもの

もっと、自分の信条などは、さらに狭く行動空間を狭める。宗教などは、それの共有概念だ。カルト宗教は、用心深く迂回して踏まないように、でも戻れない部分で、致命的な部分に踏み込んだりする。

それは、制限とは逆に「欲望」が行動空間を広げるから。また、論理的な迂回と跳躍色々なテクニックで、踏み込んでも大丈夫だとそそのかす。欲望が制限できないものは、致命的な部分まで踏み込んで、社会から姿を消す。


また、ソーシャルな「欲望」は、行動空間を広げようとしている。可能な限り、思考空間と同じにしようとする。それは技術的な進歩だったり、新しい概念の発見だったりするわけだが。

そうすると、たまに今まで縁に居た致命的な点を迂回して向こう側に行く事が出来るようになる。それが、みんなは禁忌と避ける紙一重だったりするから、最初は色々理由をつけてそこも「赤い」とみなそうとするが、リソースは有るだけ食いつぶされるので、結局そこも新しく利用されたりする。著作権をうまく回避したように見えるyoutubeとか。イノベーションは禁忌の影に有る。みんなが見たくないすぐそばに有る。

だから、未来予知は当たらない。技術予想は当たらない。未来は、見えないものの影に眠っているから。